北海道松前郡松前町松城にある松前城です。
蛎崎(かきざき)慶広が文禄2年(1593)豊臣秀吉より蝦夷島主と認められる朱印状を受けました。秀吉の死後、徳川家康に臣従して姓を松前と改めました。慶長4年(1599)のことでした。
慶長11年(1606)松前城の前身となる福山館を築城しました。松前藩の石高は1万石に過ぎませんでしたが、ニシンや昆布、鮭などの海産物の専売やアイヌとの交易で20万石に匹敵する裕福さでした。
松前城は福山城ともいわれ、福山の大地に築かれた平山城です。ロシア船が出没しはじめた幕末、徳川幕府は松前崇広に築城を命じ、6年の年月をかけ安政元年(1854)完成させた日本で最後の城なのです。
明治元年(1868)に榎本武揚、土方歳三らが率いる旧徳川幕府軍の手によって落城しましたが、明治2年(1869)に官軍が奪取に成功しました。
明治8年(1875)天守、本丸御門、本丸東壁などを残して取り壊されました。その天守も昭和24年(1949)の火災により本丸御門以外の建物は焼失してしまいました。
復元された天守は鉄筋3階建ての建物で、内部は民俗資料館となっています。現在は公園として整備されていて、7000本の桜が咲く名所となっています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
蛎崎(かきざき)慶広が文禄2年(1593)豊臣秀吉より蝦夷島主と認められる朱印状を受けました。秀吉の死後、徳川家康に臣従して姓を松前と改めました。慶長4年(1599)のことでした。
慶長11年(1606)松前城の前身となる福山館を築城しました。松前藩の石高は1万石に過ぎませんでしたが、ニシンや昆布、鮭などの海産物の専売やアイヌとの交易で20万石に匹敵する裕福さでした。
松前城は福山城ともいわれ、福山の大地に築かれた平山城です。ロシア船が出没しはじめた幕末、徳川幕府は松前崇広に築城を命じ、6年の年月をかけ安政元年(1854)完成させた日本で最後の城なのです。
明治元年(1868)に榎本武揚、土方歳三らが率いる旧徳川幕府軍の手によって落城しましたが、明治2年(1869)に官軍が奪取に成功しました。
明治8年(1875)天守、本丸御門、本丸東壁などを残して取り壊されました。その天守も昭和24年(1949)の火災により本丸御門以外の建物は焼失してしまいました。
復元された天守は鉄筋3階建ての建物で、内部は民俗資料館となっています。現在は公園として整備されていて、7000本の桜が咲く名所となっています。
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