青森県八戸市八幡にある櫛引八幡宮です。
南部家の祖とされる南部三郎光行は文治5年(1189)の文治の役の戦功で、陸奥の国糠部五郡(八戸・三戸・下北・鹿角・下北)を賜りました。櫛引八幡宮は光行が家臣である津島平次郎を使わせて甲斐南部郷の八幡宮御神体を勧請したのが始まりです。建久3年(1192)十和田滝ノ沢に仮宮を営み甲斐国南部郷に祀ってあった八幡大明神を移したそうです。
貞応元年(1222年)現在の櫛引村に移し、慶安元年(1648)社殿を完成させて、櫛引八幡宮と称しました。南部師行が社殿を再建した時以来、南部領一之宮として代々の祈願所として崇敬庇護されてきました。
江戸時代に入り、本拠が盛岡城に移った後も、八戸藩のものにならず境内だけは盛岡藩の飛地として認められました。平成5年(1993)、本殿・旧拝殿など5棟が国の重要文化財に指定されました。
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南部家の祖とされる南部三郎光行は文治5年(1189)の文治の役の戦功で、陸奥の国糠部五郡(八戸・三戸・下北・鹿角・下北)を賜りました。櫛引八幡宮は光行が家臣である津島平次郎を使わせて甲斐南部郷の八幡宮御神体を勧請したのが始まりです。建久3年(1192)十和田滝ノ沢に仮宮を営み甲斐国南部郷に祀ってあった八幡大明神を移したそうです。
貞応元年(1222年)現在の櫛引村に移し、慶安元年(1648)社殿を完成させて、櫛引八幡宮と称しました。南部師行が社殿を再建した時以来、南部領一之宮として代々の祈願所として崇敬庇護されてきました。
江戸時代に入り、本拠が盛岡城に移った後も、八戸藩のものにならず境内だけは盛岡藩の飛地として認められました。平成5年(1993)、本殿・旧拝殿など5棟が国の重要文化財に指定されました。
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