山形県米沢市丸の内にある上杉神社です。
上杉神社は松岬公園内にある上杉謙信公を祀る神社です。上杉家は藤原高藤の流れをくむ鎌倉以来の名家です。慶長年間に上杉景勝は米沢城内に不識庵を建立しました。そこを謙信の廟堂としたのが始まりです。
明治4年(1871)、治憲を併祀して社殿を改修して不識庵から上杉神社に改めました。米沢藩の藩祖として崇敬されている上杉謙信公を祭神としています。
大正8年(1919)の米沢大火で焼失しましたが、米沢出身の建築家、伊藤忠太博士の設計で再建されました。明治神宮、出雲大社、靖国神社を設計監督した人です。
大正9年(1920)から再建を始め、大正12年(1923)4月に完成しました。その総工費は46万5500円余の大工事でした。同じ年の米沢市の予算は31万円余りだったそうです。
社地は老松や古杉が茂る松岬公園の中央部を占め、面積は約2万㎡です。社殿は本殿、幣殿、拝殿、神輿舎、神饌所、祭器庫、神符授与所、手水舎、斎館、神楽殿、宝物館、絵馬殿などをそなえています。
春の「上杉まつり」は4月29日から5月3日まで催されます。例大祭も盛大に催され、太鼓と笛の音が鳴り響き鎧甲の武者行列が市中を練り歩くそうです。
2月第2土・日には「上杉雪灯篭まつり」も開催されます。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
上杉神社は松岬公園内にある上杉謙信公を祀る神社です。上杉家は藤原高藤の流れをくむ鎌倉以来の名家です。慶長年間に上杉景勝は米沢城内に不識庵を建立しました。そこを謙信の廟堂としたのが始まりです。
明治4年(1871)、治憲を併祀して社殿を改修して不識庵から上杉神社に改めました。米沢藩の藩祖として崇敬されている上杉謙信公を祭神としています。
大正8年(1919)の米沢大火で焼失しましたが、米沢出身の建築家、伊藤忠太博士の設計で再建されました。明治神宮、出雲大社、靖国神社を設計監督した人です。
大正9年(1920)から再建を始め、大正12年(1923)4月に完成しました。その総工費は46万5500円余の大工事でした。同じ年の米沢市の予算は31万円余りだったそうです。
社地は老松や古杉が茂る松岬公園の中央部を占め、面積は約2万㎡です。社殿は本殿、幣殿、拝殿、神輿舎、神饌所、祭器庫、神符授与所、手水舎、斎館、神楽殿、宝物館、絵馬殿などをそなえています。
春の「上杉まつり」は4月29日から5月3日まで催されます。例大祭も盛大に催され、太鼓と笛の音が鳴り響き鎧甲の武者行列が市中を練り歩くそうです。
2月第2土・日には「上杉雪灯篭まつり」も開催されます。
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山形県米沢市丸の内にある上杉記念館です。
上杉記念館は松岬公園の南側の二の丸跡にあり、旧上杉伯爵邸だった建物です。明治29年(1896)、最後の米沢藩主14代上杉茂憲(もちのり)伯爵の本宅として造営されました。敷地は約5千坪、建坪は530坪と壮大な大邸宅でした。
鶴鳴館(かくめいかん)と呼ばれ、建設には当時のお金で4万円近くの巨費をかけました。大正8年(1919)5月19日の大火で類焼し灰燼に帰しました。茂憲はその1ヵ月前に亡くなっていました。
伯爵を継いだ上杉憲章は、大正13年(1924)に再建しました。建坪は285坪と焼失前の約半分です。庭園は東京の浜離宮庭園を模して造園したようです。
第2次大戦後は進駐軍の宿舎に使用され、昭和25年(1950)に接収が解除後、米沢市が上杉家より譲り受けたそうです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
上杉記念館は松岬公園の南側の二の丸跡にあり、旧上杉伯爵邸だった建物です。明治29年(1896)、最後の米沢藩主14代上杉茂憲(もちのり)伯爵の本宅として造営されました。敷地は約5千坪、建坪は530坪と壮大な大邸宅でした。
鶴鳴館(かくめいかん)と呼ばれ、建設には当時のお金で4万円近くの巨費をかけました。大正8年(1919)5月19日の大火で類焼し灰燼に帰しました。茂憲はその1ヵ月前に亡くなっていました。
伯爵を継いだ上杉憲章は、大正13年(1924)に再建しました。建坪は285坪と焼失前の約半分です。庭園は東京の浜離宮庭園を模して造園したようです。
第2次大戦後は進駐軍の宿舎に使用され、昭和25年(1950)に接収が解除後、米沢市が上杉家より譲り受けたそうです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
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山形県米沢市丸の内にある松岬公園です。
松岬公園は舞鶴城、松岬城と呼ばれた米沢藩主上杉氏の居城跡です。城は明治6年(1873)廃城になり翌年から公園として開放されています。堀と石垣を残していて桜の名所にもなっています。
城が築かれたのは、鎌倉時代に奥州征伐の軍功によって大江時広が長井庄の地頭として来た暦仁元年(1238)の事でした。松岬城といわれました。姓を長井と改めた大江氏は、その後8代広房まで続きますが天授6年(1380)伊達宗遠(むねとう)に滅ぼされ伊達氏のものとなりました。
伊達氏は10代、212年、この城を統治しました。16代晴宗の時には米沢城と呼ばれていた事が記録に残っています。天正19年(1591)、17代政宗の時、豊臣秀吉の命で本拠を岩出山城(宮城県)に移しました。
秀吉の武将蒲生氏郷が3万8千石で入封。7年後の慶長3年(1598)会津120万石の上杉景勝の統治となりました。関が原の合戦の翌年、豊臣方に組みした為、徳川家康は上杉景勝を米沢福島30万石に減封しました。景勝は会津から将兵6000余騎を引き連れ、本拠を直江山城守の城のある米沢に移したのでした。
景勝は慶長13年(1608)、城の修理と拡張をし18年に完成させています。蒲生郷安の時は近江国松ヶ崎の出身だった事から、城は「松ヶ崎城」と呼ばれていましたが景勝から「舞鶴城」と改められました。天守閣のない質素な城でした。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
この名言は米沢藩中興の名君と仰がれる「上杉鷹山」(上杉氏10代)の言葉です。殖産興業に努力して藩運を挽回し、天明の大飢饉にも領内からは一人の餓死者も出さなかったそうです。
「舞鶴城」は明治2年(1869)に14代茂憲が版籍奉還するまでの272年間、上杉家歴代の居城となり、明治6年(1873)には取り壊されました。その後、城址には神社が建てられました。
公園内には上杉記念館、米沢市上杉博物館、上杉神社、稽照殿(けいしょうでん)などが建ち並んでいます。
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松岬公園は舞鶴城、松岬城と呼ばれた米沢藩主上杉氏の居城跡です。城は明治6年(1873)廃城になり翌年から公園として開放されています。堀と石垣を残していて桜の名所にもなっています。
城が築かれたのは、鎌倉時代に奥州征伐の軍功によって大江時広が長井庄の地頭として来た暦仁元年(1238)の事でした。松岬城といわれました。姓を長井と改めた大江氏は、その後8代広房まで続きますが天授6年(1380)伊達宗遠(むねとう)に滅ぼされ伊達氏のものとなりました。
伊達氏は10代、212年、この城を統治しました。16代晴宗の時には米沢城と呼ばれていた事が記録に残っています。天正19年(1591)、17代政宗の時、豊臣秀吉の命で本拠を岩出山城(宮城県)に移しました。
秀吉の武将蒲生氏郷が3万8千石で入封。7年後の慶長3年(1598)会津120万石の上杉景勝の統治となりました。関が原の合戦の翌年、豊臣方に組みした為、徳川家康は上杉景勝を米沢福島30万石に減封しました。景勝は会津から将兵6000余騎を引き連れ、本拠を直江山城守の城のある米沢に移したのでした。
景勝は慶長13年(1608)、城の修理と拡張をし18年に完成させています。蒲生郷安の時は近江国松ヶ崎の出身だった事から、城は「松ヶ崎城」と呼ばれていましたが景勝から「舞鶴城」と改められました。天守閣のない質素な城でした。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
この名言は米沢藩中興の名君と仰がれる「上杉鷹山」(上杉氏10代)の言葉です。殖産興業に努力して藩運を挽回し、天明の大飢饉にも領内からは一人の餓死者も出さなかったそうです。
「舞鶴城」は明治2年(1869)に14代茂憲が版籍奉還するまでの272年間、上杉家歴代の居城となり、明治6年(1873)には取り壊されました。その後、城址には神社が建てられました。
公園内には上杉記念館、米沢市上杉博物館、上杉神社、稽照殿(けいしょうでん)などが建ち並んでいます。
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山形県米沢市御廟にある上杉家廟所です。
法音寺に隣接する上杉氏歴代の廟所で、墓域は東西105m、南北173mあるそうです。まわりには樹齢300年を超す、杉の巨木が鬱蒼としています。
元和9年(1623)3月20日上杉景勝逝去の折り、廟所として造られ、謙信から12代斉定まで埋葬されています。各廟には石造の五輪塔が安置されています。
藩祖上杉謙信の廟は中央のやや奥まったところにあります。これは米沢城本丸東南隅の祠堂にあったものを明治9年(1876)移したものだそうです。
上杉謙信の廟を中心に、左右交互に上杉家代々の御遺骸、御遺骨を納めた廟が立ち並んでいます。廟屋の造りは、時代によって違いがあるものの上杉家の家風を受け継いだ質朴なものです。
上杉謙信の遺骸は甲冑をつけてかめに納められているということです。
昭和58年江戸時代の大名墓所の代表として国の史跡に指定されました。
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法音寺に隣接する上杉氏歴代の廟所で、墓域は東西105m、南北173mあるそうです。まわりには樹齢300年を超す、杉の巨木が鬱蒼としています。
元和9年(1623)3月20日上杉景勝逝去の折り、廟所として造られ、謙信から12代斉定まで埋葬されています。各廟には石造の五輪塔が安置されています。
藩祖上杉謙信の廟は中央のやや奥まったところにあります。これは米沢城本丸東南隅の祠堂にあったものを明治9年(1876)移したものだそうです。
上杉謙信の廟を中心に、左右交互に上杉家代々の御遺骸、御遺骨を納めた廟が立ち並んでいます。廟屋の造りは、時代によって違いがあるものの上杉家の家風を受け継いだ質朴なものです。
上杉謙信の遺骸は甲冑をつけてかめに納められているということです。
昭和58年江戸時代の大名墓所の代表として国の史跡に指定されました。
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岩手県西磐井郡平泉町平泉字加羅楽にある柳之御所跡です。
現在の高館橋の西のたもとにあります。奥州藤原氏の初代清衡、二代基衡の居館跡です。別名「平泉館」とも呼ばれています。
柳之御所は文治5年(1189)源頼朝の鎌倉幕府軍の攻撃によって落城し、藤原氏三代の栄華もわずか90年で幕を閉じたのでした。
柳之御所資料館には柳之御所遺跡から出土した陶器、土器などの貴重な遺物を展示しています。儀礼に使った素焼きの皿、かわらけや、中国製磁器の調度品など様々なものが出土し、当時の暮らしの様子を鮮やかに伝えています。
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現在の高館橋の西のたもとにあります。奥州藤原氏の初代清衡、二代基衡の居館跡です。別名「平泉館」とも呼ばれています。
柳之御所は文治5年(1189)源頼朝の鎌倉幕府軍の攻撃によって落城し、藤原氏三代の栄華もわずか90年で幕を閉じたのでした。
柳之御所資料館には柳之御所遺跡から出土した陶器、土器などの貴重な遺物を展示しています。儀礼に使った素焼きの皿、かわらけや、中国製磁器の調度品など様々なものが出土し、当時の暮らしの様子を鮮やかに伝えています。
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