京都府京都市右京区御室大内に仁和寺があります。
仁和寺は竜安寺の南西800mほどのところにある真言宗御室派の総本山です。仁和2年(886)、第58代光孝天皇の勅願によって建設に着手されました。先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」(にしやまごがんじ)と称する一寺の建立を発願されたことが始まりです。
しかし、天皇はその工事なかばにして崩御し、次の宇多天皇によって仁和寺は仁和4年(888)、年号を寺号として創建されました。宇多天皇は寛平9年(897)に譲位し、法皇となって仁和寺に御室を構えて入山しました。寛仁2年(1018)には三条天皇の皇子師明(もろあきら)親王が入りました。
その後白河天皇の皇子・第3世の覚行が跡をつぎ中御室と呼ばれました。これが最初の法親王となり、以後門跡寺院の第一として隆盛を極めていきます。法親王入寺ごとに御堂が新設されて堂舎僧坊は増加し、寺域も拡大して東は紙屋川辺から西は広沢池にまで及んだそうです。
一時の仁和寺は子院も含めて64を数えるという大伽藍になり壮観を極めました。しかし、元永2年(1119)と仁平3年(1153)の大火で大打撃を受けました。鎌倉時代後半には、貴族に替わって武家が台頭し、仏教も禅宗の方が盛んになり、真言宗はかつての栄光を失っていきました。
そして、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱によって、仁和寺は一山ことごとく焼失するという悲運に見舞われたのです。応仁の乱が始まった翌年、当時仁和寺は西軍の一拠点となっており、東軍の焼き討ちに遭い、わずか一夜にしてことごとく焼失したということです。
以後150年間は双ヶ丘(ならびがおか)西麓に移っていました。その後、21世の覚深法親王が再興に乗り出し、徳川3代将軍家光の援助を仰ぎ、20余万両の寄進と、京都御所の紫宸殿、清涼殿などが下賜され再建されました。当時御所に存在しなかった二王門や五重塔は、その当時新築されたものだそうです。
明治維新まで30代、約1000年にわたり皇子皇孫が仁和寺の門跡(住職)に就任し、御室御所(おむろごしょ)と称されました。明治維新後は、門跡に皇族が就かなくなったことから、旧御室御所と呼んでいます。明治20年(1887)の火災で本坊の多くを焼失し、大正2年(1913)現在の姿になりました。
仁和寺の広大な境内は御室御所跡として史跡に指定され、御室桜は国の名勝に指定されています。金堂は国宝に指定され、二王門、本坊表門、中門、観音堂、五重塔、経蔵、鐘楼、御影堂、御影堂中門、九所明神本殿、遼廓亭、飛濤亭などは国の重要文化財です。平成6年(1994)にはユネスコの世界文化遺産に登録されています。
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