京都府京都市上京区京都御苑内に仙洞御所・大宮御所があります。
京都御苑内には京都御所の南東に仙洞御所があります。仙洞御所は、退位した天皇(上皇・法皇)のお住まいのことをいいます。後水尾上皇のために寛永7年(1630)に完成されたもので、正式には桜町殿といわれました。
それと同時に後水尾上皇の皇后(2代将軍徳川秀忠の娘・和子)である東福門院の女院(にょいん)御所も建てられました。これが大宮御所です。現在の大宮御所は慶応3年(1867)、英照皇太后(えいしょうこうたいごう・孝明天皇皇后)のために女院御所の跡に建てられた建物です。
英照皇太后が東京に移られた後は、御常御殿(おつねごてん)のみを残して整理され、それが現在に伝えられています。仙洞御所と大宮御所は1つの築地の中にあり、、建物は大宮御所の御常御殿を除けばほとんどなく、仙洞御所は茶室はありますが、広大な日本庭園となっていることです。
後水尾天皇が在任中、紫衣事件(しえじけん)が起こりました。慶長18年(1613)、幕府は「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」を出し、その2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じました。
しかし後水尾天皇は従来の慣例通り、僧侶に紫衣着用の勅許を与えました。幕府は、寛永4年(1627)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなし、多くの勅許状の無効を宣言し、法度違反の紫衣を取り上げるよう命じました。
大徳寺住職の沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧は、朝廷に同調し、幕府に抗弁書を提出し、反抗した高僧を流罪に処しました。元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を公にした事になります。
寛永9年(1632)、徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許されました。寛永18年、事件の発端となった大徳寺、妙心寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡されたのです。後水尾天皇がこのことで退位されたので、修学院離宮をはじめ仙洞御所、大宮御所の造営に幕府が破格の援助をしたのでした。
仙洞御所、大宮御所の地は、かつて聚楽第の後身として豊臣家の本邸「京都新城」のあった所です。太閤御所とか太閤上京御屋敷などと呼ばれたそうです。豊臣秀吉が没したあとは大坂から秀吉の正室の北政所が住んだそうです。
仙洞御所と大宮御所は塀を隔てて並んで建てられていましたが、仙洞御所の御殿が安政元年(1854)の火災以後再建されず、慶応3年(1867)の大宮御所改修時に敷地が組み込まれ1つの御所となりました。それぞれあった庭園の池も掘割(ほりわり)でつながっています。
大宮御所(北池、庭園を含む)の面積は約1万6千平方m、仙洞御所(南池を含む)の面積は約7万5千平方m、合わせて9万1千平方mと広大です。近年までは国賓の宿泊所としての役割も担っており、天皇、皇后、皇太子及び皇太子妃の入洛、行幸啓(帰京)の際の滞在に使用されています。
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