8時半、起床。
朝食はとらず、昼前に家を出る。
3限は大学院の演習。Oさんも昼食をまだとっていないという。それでは「西北の風」で食事をしながらしましょうということになる。ナポリタンとコーヒー。1時間が経過したところで、ミニスイーツを追加で注文(コーヒーはお替り無料)。結局、2時間近く滞在した。
5限は講義「日常生活の社会学」。教室の温度が蒸し風呂のようになっている。見ると、空調のスイッチが入っていない。なんで?
空調のスイッチを入れ、窓と扉を開けて、空気を入れ替える。
今回のテーマは「性別と年齢」。どちらも人が自己を、あるは他者を、認識するときの基本的指標である。名前は相手に聞かなければわからないが、性別と(だいたいの)年齢はパッと見でわかる。だからコンビニの店員は会計のときに商品と金額だけでなく客の性別と年齢を一緒に機械に打ち込むことができる。また、性別と年齢にはそれにふさわしい行動が付随しているという点も共通だ。相違点は、性別はカテゴリー変数であるのに対して、年齢は連続変数であること。性別は原則として生涯変わらないのに対して、年齢は変化し続けることである。性別も年齢もアイデンティティの重要な構成要素だが、性別はアイデンティティの変化しない側面を代表し、年齢はアイデンティティの変化する側面を代表している。
講義を終え、雑用を片付けてから、7時ごろ、大学を出る。空はまだほんのりと明るい。ずいぶんと日が長くなった。
往き帰りの電車の中で、吉田篤弘『イッタイ ゼンタイ』(徳間書店)を読む。連作短編小説である電車に乗っている時間は片道30分(蒲田⇔東京 20分、大手町⇔早稲田 10分)なので、30分あれば読める程度の短編が車中読書には向いている。駅を降りてから話の続きが気にならないですむ。
『イッタイ ゼンタイ』は帯の宣伝文にあるように「「都会の片隅のシュールでコミカルな日常と秘密を描く現代の寓話」である。
「われわれはもう羊を数えない。なぜなら数える必要がなくなったからだ。
眠れぬ夜はいつのまにか解消され、冷たい雨を降らせる雲の一軍は西へ去った。始まったものは、いつか終わりゆく。
むかし、人はバナナの皮ですべって転んだ。いまはもう誰も転ばない。むかし、人は街角の煙草屋でハイライトを買って赤電話の受話器を握った。いまはもう路上ですらまともに煙草 が吸えない。
ちなみに、廃棄された赤電話はニシジマが一手に引き受けた。が、大抵の奴はそんなことを知らない。赤だけじゃない。黒電話がどこへ消えたのかも気に留めない。誰も彼もがあんなに黒電話と親密だったのに、あの何千何百という黒電話は、いまどこに眠っているのか。俺は知っている。黒電話の墓場を。いや、そこは墓場なんかじゃない。電話どもにはまだ息がある。使えるものを使えなくしたまで。無理矢理、電話線を引きちぎってお払い箱にしたまでだ。
我々は、つくってはこわし、つくっては捨ててきた。いつか誰かが我々の稗史を記すとき、あの羊を数えながら途方もない生涯をつづけた日々が、いかに馬鹿げたものであったか明らかになる。我々は復讐される。廃棄したすべてのものから―。
そこで、俺たち「なおし屋」の出番になる。
俺が話したいのはその経緯について。どうしてこうなったか。なぜ俺たちは闇雲になおしたくなったのか。仮に理由などないとしても、それなりの経緯はある。」(掌の中の竜)。
5年使って壊れたデスクトップPCを直して使い続けるきたったろうか。