パパと呼ばないで

再婚した時、パパと呼ばないでくれと懇願した夫(←おとうさんと呼んで欲しい)を、娘(27)「おやじ」と呼ぶ。良かったのか?

死について

2019年01月07日 | Weblog
1月7日(月)晴れ

昨日の、高校友Bちゃんのご主人の訃報に端を発した訳ではないが、死ということについて考えている。
ワタクシは子供の頃からずっと死ぬ事が怖くて怖くてたまらなかった。
流石にこの歳になると、不老不死を願ったり、絶対死にたくないとは思わない。
ボケちゃって何もわからないまま周りに迷惑かけてまで生き続けたいとは思わない。
そのためにはどうしたらいいのか。答えは一つ、運動してコレステロール値を下げろって話だ。
じゃなくて!

年末年始に上京してた義弟Aと夫と3人で呑んだ時、死ぬ事についての話になる。
義弟A「オレ、いつ死んでも構わない。今死んでも構わない。」
夫の家は熱心な仏教徒である。
だからてっきり彼は宗教観によって死への恐怖がないのかと思ったら、全くそうではなかった。
義弟A「おふくろが亡くなる前、南無阿弥陀仏を何度となく唱えてみたけど何にもならなかった。」
ワタクシの場合、小さい頃から「長生きしたい」と思ってたから、一概にこれだけだとは言えないのだけど、
やはり、子供が生まれてからは、これが「生」に執着する大きな要因になっている。
癌になった時にまず考えたのは「せめて娘が成人するまでは生きていたい」
今、立派に(・・・)成人したが、神様ありがとう、もう十分です!とは思わない。
今、やっと母の納得する就職をして、優しい婚約者がいて、今後彼女が結婚して、孫が生まれるかもしれない、そのあたりまでなんとか見せていただけないものでしょうか、神様。
子供のいる人全てが生に執着するとも思わないし、逆に子供のいない人はこの世に未練はないのか?というとそういうわけでもないとは思う。
ただ、思わず比較してしまうのは、義弟が双子だからか。
中学生を頭に、まだ就学前の子供まで3人いる義弟Bに、果たして「死」について尋ねて、彼が「いつ死んでもいい」とは決して言わないだろうなあとは思う。
まあ、子供を作ったという責任感もあるとは思うが、責任感だけではなく、やはり守るものがある人間は生に執着するのではないかと思うのだが、流石にそんな事、義弟Aには言えず。
義弟Aが「どうせ死ぬんだよ。絶対死ぬんだよ。それなら、それが今だろうが10年後だろうが大した違いはない。」
切なさを通り越して、ちょっとイラっとする。

今を精一杯生きているから、死ぬのが怖くない、という人はどのくらいの割合でいるのだろうか。
もう、十分生かしていただきましたと、70代80代の方がおっしゃるのは、それはとても素晴らしく、羨ましくもある。
でも30代40代50代あたりの人で、死ぬのが怖くない、いつ死んでもいいと言えるのは、逆に精一杯生きていないからじゃないかなあ。
好きな人、好きなもの、やりたい事、そういう事がないからこの世に未練がないのではないか。
この夜、唯一ワタクシがほっこりしたのは、30年くらい前に、義弟Aがバイクで日本一周して、北海道の富良野から当時好きだった女の子にラベンダーの花束を送ったという話。
浮いた話一つない彼が、酔った勢いで語ったこの昔話で、彼にも女の子を好きになったりした事あったのね〜としみじみしたのであった。

今日の一枚は・・・
Bちゃんのご主人を偲んで、買ったお花。
お正月ですら、千両と松しか飾らなかった玄関が少し華やぎました。
コメント (2)
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