蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

佐久間象山  (bon)

2013-08-01 | 日々雑感、散策、旅行

 今年の山歩き(先のブログ妙高山)で、訪れたメインのお宿は、長野県渋温泉 “ひしや寅蔵” でした。

このお宿は、渋温泉の草分けとも言える老舗のお宿で、創業400年の歴史を持ち、当代12代寅蔵さんが主人。
天保14年(1843年)8代目寅蔵の頃、象山がここを常宿として庭の池に温泉のお湯をはり、入浴されたのが
当館の露天風呂の初めと伝えられている。

 私たちが、泊まった部屋がまさしく部屋名が “象山” であり、部屋の中には、立派な屏風2艘、掛け軸多数があり、
重厚なお部屋でした。
窓のすぐ下には、象山が入った露天風呂があり、私たちは、そこに夕と朝の2回入りました。
(模様は先のブログで・・)


 そんなことで、突然この「佐久間象山」について詳しく調べてみたくなったということです。 
今の、NHK大河ドラマの初めの方で、象山(奥田瑛二)が出てきたりもしていましたし・・。
  佐久間象山
         (ウイキペディアより) 


例によって、ウイキペディアより・・

“佐久間 象山(さくま しょうざん、-ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家で、松代三山の一人。
通称は修理(しゅうり)、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。” 
とあります。
 そういえば掛け軸の名には、「子」と書かれていました。

 屏風               掛け軸                                      

  

 また、“象山は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵が多かった。数々の業績を残したにも関わらず
現在に至るまで
彼の評価が低いのもその性格に由来するところが大きいとも言われる。
 しかし当時の日本において象山は紛れもない洋学の第一人者だった。 
彼を暗殺した河上彦斎は後に象山の事歴を知って愕然とし、
以後暗殺をやめてしまったという。
更に彼の門弟には 吉田松陰 をはじめ、小林虎三郎や 勝海舟、 河井継之助、 橋本左内、 岡見清熙、
加藤弘之、 坂本龍馬 など後の日本を担う人材を多数輩出し、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。”

 

“元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。
しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた
象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)。
7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。”

 

 象山は、1811年(文化8年)2月28日生まれで、妻は勝海舟の妹だそうです。
一般には、“しょうざん”と呼びますが地元では、“ぞうざん”と呼ぶ方も多いとか・・。

彼は、西洋の学問・歴史に造詣が深いことはよく知られていますが、“地元松代で日本初の電信実験を
成功させている。” のだそうです。


      (明日から、蓼科農園です。 暑いだろうな・・)


 

 

 

 

 

 

 

 

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