蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

大阪府第一高等女学校について  (bon)

2013-08-18 | 日々雑感、散策、旅行

 蓼科浪漫倶楽部のメンバーは、もともと蓼科の農園を中心として発足した高校の同級生
「清水谷大好き人間」の集まりで構成されています。
この農園には大体月一の割で作業のために集結し、いろんな談義の中で、いつも必ず出てくるのが、
母校のことや当時の出来事で、時にその話題が発展し大いに盛り上がるのです。

 わずか3年の学園生活は、まさしく青春の真っただ中にあって、今となっては、楽しい想い出ばかりが
渦巻きたちまちのうちに50年以上もタイムスリップしてしまうのです。

 
 そんなわが母校について、いまさら語ることもありませんが、創立当時の事柄について改めて調べなおして、
ここに歴史的事項を記述しておきたいと思いました。
 

 わが母校は、1900年文部省告示194号により、府立高等女学校の開校が認可され、
1901年発足の運びとなった 府立高等女学校の校名は 「大阪府第一高等女学校」 と告示された。
しかし大阪府ではこれまで設置順の番号で名付けられていた校名を廃止し、1901年4月より学校所在地の
地名からとった校名へと一斉に改称することを決定した。
このため開校直前の1901年3月12日付で 「大阪府清水谷高等学校」 の校名が告示された。
そして、大阪府清水谷高等女学校として開校してわずか2ヶ月後の1901年(明治34年)6月3日には、
「大阪府清水谷高等学校」へと改称した。
つまり、大阪府第一高等女学校は、この校名で一旦は認可されたが開校時には「清水谷」の所在地名が
付されることとなり、事実上、学校としては存在しなかったということになる。
しかし、実質的には「大阪府第一高等女学校」には変わりはないことは、初代校長着任当時の
世論や各界の動向からうかがえる。


 そもそも、1900年当時は府立高等女学校は存在せず、1900年4月25日、南区千年町に
大阪市立第二高等女学校が開校したことにより、大阪市内には大阪市立第一高等女学校・
大阪市立第二高等女学校の2つの高等女学校が設置されることとなった。

 一方で『大阪府教育十カ年計画』では大阪市内の中等教育について、大阪府は普通教育学校を中心に、
大阪市は実業教育学校を中心に運営することと示され、高等女学校は大阪府が一元的に運営することになり、
従来の大阪市立の高等女学校2校は 1901年4月に大阪府に移管されることになった。
そして、移管と同時に開校することになった大阪府清水谷高等女学校では、開校の際に
大阪市立第二高等女学校を合併して同校生徒を編入する形をとった。 
したがって、現、大阪府立清水谷高等学校のルーツは、1900年4月に開校した「大阪市立第二高等女学校」
であるともみなせるが、 初代校長(大村忠二郎)の識見により、1901年の大阪府清水谷高等女学校創立を
そのルーツとした。 このくだりについては、「清水谷100年史」(2001.6.11)にも明記されています。
 
なお、大阪市立第一高等女学校は現在の大阪府立大手前高等学校の前身にあたります。

 

 戦後、学制改革により、1948年に「大阪府立清水谷高等学校」が発足した。
近隣の大阪府立高津高等学校(旧制大阪府立高津中学校)と生徒・教職員を交流し男女共学となった。
旧制清水谷高等女学校生徒はくじ引きにより、新制高津・清水谷の両高等学校に振り分けられた。
 先輩(高校3回生)の話によれば、高津高校から、春4月桜花満開の清水谷高校正門のスロープを、
女学生たちの盛大な拍手に迎えられながら登校しそれぞれ校舎に入ったそうです。

 創立3年後(明治36年)、すなわち本科1回生の卒業により同窓会「清友会」が発足したのです。

 

 大阪府第一高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)初代校長は、大阪における女子教育の第一人者、
大村忠二郎(1862.11.27~1921.9.3)である。氏は岡山県出身の教育者で、
大阪府が女子の教育機関を整備するにあたって、府立初の高等女学校「大阪府第一高等女学校
創立に伴って、各地で手腕を振るっていた大村忠二郎が任命された。

 明治初期には、実生活に必要な「技芸」を授ける程度だった女子教育は、1899年公布の「高等女学校令」により、
高等普通教育を目指すこととされた。

 大村校長の熱意は勿論のこと、「大阪府清水谷高等女学校」として発足した府立第一高女への
各界の意気込みは相当なもので、生徒の教養・見識を高めるため、名士が多数、協力・講演した。
大隈重信や渋沢栄一をはじめ創立後20年間の記録に残るだけでも120人以上が来校しており、
清水谷高女の敷地に建てられた同窓会館「済美館
」に 首相西園寺公望が揮毫したのも、大村校長の
信奉していた親友成瀬仁蔵
の後見人である西園寺が、自身の「女子教育の重視」という考えを
大阪の殿堂で示すためであった・・とあります。

 首相西園寺公望が揮毫した「済美館」は、1907年(明治40年) - 開校5周年記念として、 (木造2階建て、)を建設した。
「済美館」は、教育勅語の「世世美厥濟」(よよそのびをなせ)から名づけられた大阪府立清水谷高等学校にある
同窓会館である。 現存する済美館は、1925年(大正14年)に鉄筋コンクリート構造3階建てへ改築された
近代建築せある。清水谷高校の同窓会、「清友会」の本部事務局が置かれており、本校に唯一残る
旧制高等女学校時代の建物である。
附属図書館として45年間転用されていたこともあって、清水谷校を象徴する“白亜の殿堂”として慕われている。
当時、鉄筋コンクリートの建て替え費用は、清友会が宝塚少女歌劇団公演を大阪市中央公会堂で開催して捻出した・・
とあります。(ウイキペディアを参照しました。)

  「済美館」  左下に写っている胸像が大村忠二郎初代校長です。
      (ウイキペディアより)


                    現在の済美館 (同窓会HPより)
                     

 

 また、大村校長は人材確保にも尽力した。中でも音楽科教員として招いた永井幸次は清水谷高女を
音楽でも殿堂に育てあげ、その教材として編纂した「女子音楽教科書」が後に全国の高等女学校での
基準本として使われるようになった。


膨大な記述、資料から抜き読みなどしましたので、分かりずらい所がありますがお許しを・・。

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
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