1939年(昭和14年)の明日、9月7日未明に他界した小説家、泉鏡花は多くの小説を世に発表し、
中でも『高野聖』、『婦系図』、『歌行燈』など映画化もされた有名な作品があります。
脚気や胃腸病に苦しみながらも、20歳から晩年まで実に74作もの小説、戯曲を発表するなどその
旺盛な創作活動には驚かれます。 特に、21~23歳には、年間7~15作もの作品を発表しているの
ですね。その後 晩年まで、無発表の3年間を除き毎年1~2作発表という凄腕?だったのですね。
泉鏡花
(ネット画像より)
ウイキペディアなどをネタにして、ざっと生涯を見てみました。
泉鏡花は、1873年(明治6年)に金沢市内で生まれますが、10歳の頃 母が若くして他界し大きな
衝撃を受けたとあります。16歳の頃、尾崎紅葉の刺激を受け、文学を志すようになり、ついに上京し
東京牛込の尾崎紅葉に入門し、書生として活動しながら紅葉の指導を受け、2年後の20歳にはすでに
新聞小説を連載します。その後も次々と新聞、文芸誌に作品を発表するなど、早くして鏡花の文壇に
おける地歩は定まったとあります。 この頃、読売新聞連載小説『義血侠血』を執筆し、後にこの
小説を原作とした『滝の白糸』が映画化され、サイレント時代から、1956年まで計6回、映画スク
リーンで上映されるほか、TVドラマ(多数)やオペラ(2014年)にもなってるのですね。
映画化といえば、ついでですが、『婦系図』は計4回、『歌行燈』、『日本橋』がそれぞれ2回、
その他8本の作品が映画化されているといいますから、人気作家だったのでしょうね。
婦系図
(ネット画像より)
この『婦系図』(1907年発表)の物語は、よく知るところですが、1902年に胃腸病のため逗子に
静養していた頃、同郷の先輩の紹介によって伊藤すずが台所を手伝いにくることになり 翌年二人は
牛込神楽坂に同棲をはじめるのです。妻・すずは もともと神楽坂に桃太郎という名で出ていた芸妓
で、師 紅葉は二人の関係を絶対にゆるさず、「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで鏡花に
迫ったため、二人はお互いを想いながらも泣く泣く離別を決意したのでした。この体験が『婦系図』
の湯島天神の場の下敷きになっているというのです。紅葉の没後、鏡花は すずと結婚し、夫婦仲は
はなはだよかったそうで、終生互いの名を彫った腕輪を身辺から離さなかったという とあります。
その後も旺盛な作家活動を続けますが、1939年7月に『中央公論』に発表した短編小説『縷紅
新草』を最後に、その2か月後に亡くなったのでした。
1999年(平成11年)に、鏡花の生家跡に泉鏡花記念館が開館しました。
泉鏡花記念館
(ウイキペディアより)