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蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

不思議な日本語(9)  (bon)

2021-01-28 | 日々雑感、散策、旅行

 またまた、言葉についてです.
  普段よく使っている言葉、あるいは たまにどこかで見かける言葉で、その語源
というか、本来の意味などを手繰ってみると意外に面白い部分があります。中には、
もともとの意味とは全く違った、正反対? みたいな意味になっている場合もあっ
たりします。 今回もランダムに並んでいますが、なかなか面白いのがあります。

 いきなり、ちょっと厳しい言葉で始まりますが・・

・慚愧に堪えない
 「このような事態を引き起こしてしまい、慚愧(ざんき)に堪えません」などと
謝罪の時に使われます。 ネット(Career picks等)によれば、「慚愧(の念)に
堪えない」は、「自分の行いを恥ずかしく思い、反省する」という意味でそもそも
は仏教用語だそうです。

 具体的には、「慚」が自分の行いを自分で恥ずかしいと思うこと、「愧」が他人
に対して過ちを告白して恥じ入ることという意味で、この2つを組み合わせて、「慚愧」
で「自分の行為に対して恥ずかしく思う」という意味になっています。
 「自分自身と他人に対して、ダブルで自分の行動や罪を恥じる気持ちを我慢でき
ない」という意味であり、また、責任を感じて後悔しているとともに、過ちを深く
反省しているときにも使われますね。 相当深く反省している場合で、後悔、忸怩、
自責などよりも もっと強いのですね。単なる『反省』では及ばないのですね。

         (ネット画像より)

・割愛(かつあい)
 こちらも元々は仏教用語だそうです。ビジネスシーン等で「時間の都合で、説明
は割愛させていただきます」などとよく聞くところですが、なぜ、『割愛』という
のでしょうか?

 「割愛」の語源に最も有力なのが仏教用語説で、「出家の際に、故郷や家族への
愛を断ち切ったこと」を「割愛」と言うそうです。 愛を割く・・のですね。そこ
から「愛着のある対象を手放す」という意味になったのだそうです。
 鎌倉時代の仏教法話集『沙石集』にも「割愛出家」という表現があるそうです。 
ですから、単に「切り捨てる」「省略する」のとは違うのですよね。本当は、省略
なのに、わざわざ割愛するなどといっている場合も見受けられるところです。

 

・さんざめく  
 goo辞典に、『「さざめく」の音変化。「ざんざめく」とも。ひどく浮き浮きと
騒ぎ立てる。にぎやかに騒ぐ』 とあります。ネットを見ていますと、この言葉も
少しずつ変化しているような感じがしてきます。

 もともとは、「音」が主体で、騒ぎ立てているとか にぎやかな様子とかを言って
いたようです。「弦歌さんざめく」といえば、歓楽街で、三味の音や歌がにぎやか
に響くの意で、戦前の前田一のサラリーマン物語に「絃歌さんざめく紅灯の巷、な
まめかしい三絃の音{ね}じめにつれて」とあるほか、火野葦平「黄金」には、
「弦歌さんざめく町の雑踏を抜けて」、
野坂昭如「プアボーイ」には、「さすが絃
歌こそさんざめかぬが」、尾崎士郎の「人生劇場」には、「何時の間にか酔っぱら
って絃歌のさんざめく秋の夜の色街をあるいている」などとあります。

 それが、谷村新司の「昴」では、「さんざめく名も無き星たちよ せめて鮮やかに
その身を終われよ」で、ここではむしろ、静かな雰囲気で、音というよりキラキラ
とした光をイメージしていると思われ、 他にも、森山直太朗の「さくら」では、
「さくら さくら いざ舞い上がれ 永遠にさんざめく光を浴びて」とあり、夏川りみ
の「満天の星」では、「さんざめく天河 星晴りてぃ流り船 かぬしゃまぬ笛む音」で、
やはりキラキラの光で静かに輝いている意味でしょう。
 『ささめく』とは、ひそひそとささやく意味なので、それと似通っているところ
から、このように変化しているとも考えられますね。 機会があれば、作詞の谷村
新司さんに聞いてみても面白いかも。

 さらに、ネットによれば、さんざめく対象として、「海」「波」「潮騒」「海岸」
「せせらぎ」「麦」「初夏」「祭」「歌」「声」「笑い」「街」「日々」などがさ
んざめいているそうです。 もはや「さんざめく」は意味が広がっていると言って
いいかもしれません。

       さんざめく光を浴びて・・(元の意味とはだいぶ違いますね
        (ネット画像より)

・らちが明かない
 「らちが明(開)かない」とは、Imidasに、『(解決してほしい)物事が片づか
ない。決まりがつかない。「最終的に予算が決まらなければ、このプランの実行も
埒が明かない」』とありました。 

 「らちが明かない」とは、いったい何が明かないのでしょうか?

 「埒」は、馬場の周囲に設けた柵(さく)のことで、転じて、物事の区切り・限
界の意をあらわしています。「埒を明ける」「埒を付ける」といえば、物事に決まり
をつける意となり、「埒を越える」といえば、法や掟(おきて)を破る、道理に反
するの意となるとあります。「埒外」(らちがい)は、一定の範囲の外の意で、
「埒内」はその対義語です。
       らち
        (ネット画像より)

・かりそめ 
  不思議な日本語(2)にちょっとだけ出ていますので、2回目となります。
(2)では、『漢字で書くと「仮初め」ですが、これは当て字だそうで、もとは
「仮染め」、または「仮様」(かりさま)だったと考えられているとあり』『文字
通り試し染めという意味で、「仮様」は仮の様子という意味のようです。なので、
「かりそめ」は「一時的な」や「軽々しい」などの意味』『「かりそめの恋」が
「一瞬の恋」「一時の間に合わせの恋」なんていうとまったく興ざめもいいとこ
だ。』などとありました。

 しかし、昔では、もう少し本気の気持であったようだと解説がありましたので、
補足的にアップしました。
 「帯とけの古典文芸」によれば、百人一首周防内侍の歌、「春の夜の夢ばかり
なる手枕に かひなく立たむ名こそをしけれ」 の訳は、 「(春の夜の夢ほどの、
かりそめの 君の・手枕に、甲斐なく立つでしょう浮き名こそ、愛しくてたちきえ
るのが惜しくなることよ……春の張るものの夜の夢ほどの手枕に、かいなく立つで
しょう汝の身こそ、愛しくて離したくなくなってしまうわ)とあり、さらに、深い
意味として「心におかしきところは、そんなことなさっては、張るの節くれ、貝な
く立つでしょう、汝に愛着して離したくなくなるわよ。」

 また、皇嘉門院別当の歌に、「難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつく
してや 恋ひわたるべき」では、「難波の入江の葦の切り株の一節のような旅先の
はかない仮寝の一夜のかりそめの契りを結んだばかりに、これから先、私はひたす
らに身を捧げ恋い続けなければならないのだろうか。」
 ここでは、葦の狩り根→仮寝、一夜→一節(ひとよ)、澪標→身を尽くし など
を掛詞としてあしらい、技巧を凝らし尽くした歌ですね。

 どちらの歌も当時の女性の恋はすごいですね。

 

 

昴 (谷村新司)

 

 

 

コメント
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