蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

江戸の治水  (bon)

2022-04-10 | 日々雑感、散策、旅行

 天正18年(1560年)徳川家康は、豊臣秀吉の命を受けて駿河国駿府から武蔵国江戸に
転封されました。当時の江戸(関東)は、江戸湾(東京湾)に注ぎ込む利根川、荒川が
大雨ごとに冠水する大湿地帯だったそうです。家康は、この大湿地帯を繁栄の地にする
戦いを始めたのです。

 今から400年以上遡った東京のお話ですが、「江戸の治水」について、竹村公太郎氏
(日本水フォーラム代表理事)の投稿記事を参照し、合わせてネット検索などから大筋
をまとめてみました。

           (ネット画像より)

 江戸を洪水から守るため、利根川の流れを東京湾から太平洋沿岸の銚子へ大きく変え
る一方、その名の通りの荒川の流れも西側へと変える大事業に着手し、まさに東京の礎
は、ふたつの大河川の流れを人工的に変える「利根川の東遷と荒川の西遷」と呼ばれる
大工事にあったのでした。

      利根川の東遷、荒川の西遷
        (ネット画像より)

 利根川の川筋は、1594年に着工され、東へ移して渡良瀬川と合流させ銚子に流すことで
江戸は太平洋へと直接繋がることになります。 現在の千葉県佐倉市付近が利根川から
太平洋に繋がる物流の街として栄えたのは、この川の付け替えによるものです。

       利根川の東遷
         (ネット画像より)

 一方、隅田川は上流では荒川と呼ばれ、荒川の名が示すように隅田川は洪水で江戸を
苦しめていました。しかし、隅田川は舟運で江戸と関東一円を結ぶ大切な川でもあった
ので、利根川のように、流路を西遠くに移動させるわけにはいかなかったのです。隅田
川の洪水を如何に制御するかが江戸の都市造りの鍵となったのです。

 大型機械のない江戸時代の治水工事は至難の業であったそうで、当時のもっとも基本的
な手法は、「ある場所で水を流れさせる」ことであったとあります。この原則をどの様
に実現したかの歴史があるのです。

 隅田川が江戸湾に流れ込む中洲の小丘に千年以上の歴史を持つ寺があり、ここは江戸湾
で最も安全な場所であるとの証拠でもあることから、この寺から北西にある高台まで
堤防を築くことにしたのです。この寺は、すなわち浅草寺なんですね。  浅草寺から
三ノ輪の高台まで高さ3m道幅8mという大きな堤防を全国の大名たちによって建設され
たのです。この堤防を「日本堤」と呼ばれていました。この日本堤によって、隅田川の
右岸の江戸市街は守られるのです。つまり、洪水は左岸に溢れさせたのです。

       日本堤
         (新経世済民新聞より)

 江戸は繁栄し隅田川の西側の江戸市街は拡大し続けますが、1657年(明歴3年)の大火
により火元の本郷から神田、日本橋、京橋、浅草を一気に焼き尽くし10万人以上の命を
奪う最悪の火災に見舞われたのです。江戸幕府は、この復興のために武家屋敷の代替え
地として隅田川の対岸を当てることとしたのです。この対岸は「向島」とよばれ、隅田
川に橋がかけられるのです。武蔵国と下総国を結ぶ両国橋なんですね。

 このように、大火によって隅田川の左岸(東側)を江戸に取り込みましたので、洪水
から守る必要が出てきたため、もともと隅田川の左岸に熊谷まで点在する中洲を本格的
な堤防に改築することとし、墨田堤、荒川堤。熊谷堤へと建設していったのです。

        日本堤と墨田堤
         (新経世済民新聞より)

 このことによって、日本堤と一連の墨田堤で囲む一帯で洪水を溢れさせて江戸に洪水
を起こさないようにしたのです。 つまり、現在でいうダムの機能と見做せるのですね。

        ダム機能
          (ネット画像より)

これで、江戸を守るインフラは完成するのですが、江戸の生命線ともいうべき日本堤と
墨田堤を如何に維持管理して行くか、様々な仕掛けが考案されるのですね。

 

 最大ともいわれるその仕掛けの一つは、吉原遊郭の移転なんですね。 日本橋付近に
あった吉原を追いはぎや辻斬りが出没する寂しい日本堤への移転だったのです。 営業
条件や補償金など有利な条件によってこの移転は見事成功し、遊郭へ行く客は舟で隅田
川を上り浅草から日本堤を歩いて吉原に向かった。一年中、江戸中の男たちが日本堤を
歩き、物売り小屋が立ち並ぶほどだったという。 ぞろぞろ歩く男たちによって日本堤
は固められるだけでなく、堤の変状や異変があればすぐに役所に知らせが来る・・管理
ができるのですね。

              日本堤を行く(歌川広重画)
           (ネット画像より)

 さらには、八代将軍吉宗は墨田堤に桜を植えさせた。先ごろのNHKのチコちゃんの
番組でも出ていましたが、梅雨の時期の前、春先には江戸中の人たちが訪れ、堤を固め
るだけでなく、周辺に次々と料亭が誘致され、後に向島が江戸一番の料亭街に生まれる
こととなったのです。

 また、浅草界隈には、芝居小屋や見世物小屋を集め、江戸中の芸能が浅草に集中し
江戸文化の華を咲かせてゆくのです。今の浅草六区の前身ですね。

 日本堤では吉原遊郭が、墨田堤の向島では料亭街が繁盛したのです。 初詣、七福神
巡り,三社祭、ほおづき市、酉の市、花火大会など一年を通したイベントが仕掛けられ
ているのです。

 著者の竹村氏は次のように締めくくっておられました。

『江戸は世界の大都市となった。そして浅草は最大の歓楽街となっていった。江戸を守
る日本堤と墨田堤のインフラは、江戸市民の文化というソフトウエアに守られていった。』
と。

 

 

 

~花~ 日本女声合唱団

すみだ川/東海林太郎・島倉千代子

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする