今年もやや遅く、ベランダのキンモクセイにいっぱいの花が付き、
周りに甘い香りを漂わせています。
まずは、芭蕉の句から…
蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな (蓼科の高原を想い出します。)
行く秋や 手を広げたる栗のいが (ちょうど今頃の様子でしょうか。)
草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒 (そろそろの楽しみ・・)
菊の香や 奈良には古き 仏たち
昨日、10月12日(旧暦)は、松尾芭蕉の命日でした。
俳句には、およそ縁の遠い わが身がどういう風の吹き回しか、拙ブログに何度
か(2013年、2014年そのほか)登場しているのです。
松尾芭蕉(寛永21年 –元禄 7年10月12日)は、江戸時代前期の俳諧師で、現在の
三重県伊賀市の出身。名は忠右衛門宗房といい、俳号を 初め実名宗房、次いで桃青、
そして芭蕉(はせを)と改めた。 芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では
俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である・・とあり
ます。
俳聖芭蕉翁
(ウイキペディアより)
今さら、記述することもありませんが、あの有名な「おくのほそ道」などを残
して、元禄7年(1694年)の9月に、門人の2人の不仲を取り持つため、奈良から生駒
暗峠を経て大坂へ赴いたがうまく行かず、この心労が健康に障ったとも言われ体調
を崩し、一時は回復したが、29日夜に下痢が酷くなり、容態は悪化の一途を辿り、
10月5日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けたが、8日、
「病中吟」と称して
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
を詠み、10日には遺書を書き、そして12日申の刻(午前4時頃)、息を引き取った
と記されています。 おくのほそ道から帰って3年後のことなんですね。
私の想い出として、5年前の2018年の9月に、東京文京区目白台にある、肥後熊本
藩主の美術品を所蔵する「永青文庫」(美術館)を鑑賞して、隣接する肥後細川
庭園を巡り、神田川に出た時でした。江戸川橋方向に少し歩いた左側に急な上り坂
「胸突坂」があり、それをちょっと上がったところに「関口芭蕉庵」がありました。
ここにあの芭蕉が住んでいたのですね。
関口芭蕉庵入り口
1677年(34歳)の頃、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わって
いた頃の住居だったところだそうです。当時、ここは「竜隠庵」と呼ばれた水番屋
で、そこに住んでいたのだそうです。芭蕉は、労働や技術者などではなく人足の
帳簿づけのような仕事だったそうですが、その住まいは後に関口芭蕉庵として
芭蕉堂や瓢箪池が整備されています。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、
桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった とあります。
この他にもう一つ、面白い出会いがありました。2017年7月に、三究会(山友の
会)で、立山方面に行った時の帰りに、JR富山駅の南西5Kmほどのところ、
神通川の西岸に鎮座する鵜坂神社に訪問した時です。 東岸には富山空港がありま
した。この神社には、その昔、大伴家持が立ち寄っていますが、松尾芭蕉も訪れて
いるのです。
この神社には、「日本五大奇祭」の一つとして知られる「尻打祭」というのが
あったそうです。平安時代から江戸時代まで、楉(シモト)祭という特殊神事が
行われていて、別名を「尻打祭」といい、貞操を戒めるために女性の尻を打つ祭
であったそうです。
正月に七草がゆを炊いた薪で女性の尻を打つと健康な子が生まれるという公家の
遊びが伝わったものとありますが、芭蕉らもこの神事を詠んでいるのです。
油断して 行くな鵜坂の 尻打祭
の句碑がありました。
芭蕉句碑
(ウイキペディアより)
もちろん現在では、そのようなことはなく、明治の初めから昭和の中頃まで、雌馬
の尻を打つ祭りはあったそうです。現在、縁結びや安産のご利益があるパワース
ポットとして人気を集めているそうです。
なぜか、このようなことが想い出されてきました。
詩人の魂