昨夜の卓球女子は、53年ぶりの世界1位を目指した中国との決勝戦でした。2対2で迎えた
運命を決める第5試合の日本選手は、弱冠15歳の張本美和でした。 試合が始まったのは、
23時でした。しかし、惜しくも1-3で敗れ優勝は成りませんでした。世界ランク1~3位の
中国勢の壁はやはり高いものでした。
昨日2/24は、ロシアがウクライナに侵攻して2年目に当たりますが、今なお戦火
の中にあります。アメリカもやや引いていますが何とかならないものでしょうか?
そんな憂鬱な日でもあるのですが、この日、直木三十五(なおきさんじゅうご)氏
の命日にあたるのですね、1934年2月24日、結核で43歳の人生を閉じています。
あの直木賞は彼のことで、大衆歴史小説家であり、幕末のいわゆる「お由羅
騒動」を描いた『南国太平記』の代表作を著すほか、脚本家、映画監督でもあっ
たそうです。
私は、彼の小説は何も読んでいないので、語る資格はないかもしれませんが、
「直木賞」があるのはよく知っています。正しくは「直木三十五賞」なんですね。
直木三十五氏
(ウイキペディアより)
本名を植村壮一といい、苗字の「植」を分解して「直木」とし、文筆活動を始め
た三十一歳から筆名を三十一とし、その後一つ年を取るごとに三十二、三十三と
名前を変えて、三十五の時に、菊池寛から もう年齢で名前を変えるのはよした方
がいいと言われたことや、三十六は「逃げるが勝ち」につながる・・などで、三十
五で止まっているのだそうです。
生まれは大阪の谷町六丁目(タニロク)だそうで、小学校も桃園小学校とあり
ますから、私の家とほぼ近くであったのですね。年代は全く違いますが・・。
直木は、小学校時代からよくできた子でしたが病弱だったそうで、近くの谷町
六丁目にある「薄医院」に物心両面でお世話になっていたことから、相撲界で
「タニマチ」というのは、これが由来だとあります。
直木は、三十三を名乗っていた頃、マキノ省三(映画監督)のところに居候して
おり、その頃 菊池寛を頭に映画芸術家協会を設立して映画製作に乗り出すが、
本人はほとんど何もせずにいたり、いまいちパッとしなかったそうです。
1929年(昭和4年)頃から、ようやく腰をすえて本格的に執筆活動を開始し、
大衆向けに分かりやすく書いた歴史小説が評判となり30年にようやく代表作
「南国太平記」を世に出し一躍人気作家となるのです。
しかし、根っからの浪費癖で破天荒な生活で常に困窮していたそうで、過労と
不摂生が元で43歳の若さで他界しました。
直木三十五記念館(谷町六丁目)
(ネット画像より)
直木を認めていた菊池寛は、1923年に雑誌『文芸春秋』を創刊するのです。
3年後には、文芸春秋社を独立させ、文芸春秋は総合雑誌として発行されて行く
のです。そして、菊池寛により、1935年(直木死亡の翌年)、新人作家を顕彰する
「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を創設したのです。
直木三十五という人が、私が住んでいたすぐそばの人であったと初めて知ると
ころとなり、恥ずかしい限りですが、これを機に「お由羅騒動」を読んでみようか
‥と思いました。
幕末の島津藩、島津斉彬と側室お由羅の子、島津久光との対立を描いた小説で
面白そうです。
On The Sunny Side Of The Street - Jazz Lag