今日も雨、池は満水金魚たちのみ喜んでいるようである。
今日は我々世代では決して忘れられない「大東亜戦争敗戦記念日」である。勝利した国々では戦勝記念日と言っている。だが、我が国では終戦記念日などといって未曾有の戦禍をもたらしたあの悲惨な無謀な戦いをオブラートで包んだような表現となっている。退却を転進といい、全滅を玉砕といって美辞で隠したことと通じるように感じるのは我々だけだろうか。
息子に教えられて始めた我が拙いブログも13年目に入る。アップ三日後の敗戦記念日に記した記事を一部修正しながら再び載せてみる。
=終戦の思い出=
今日は終戦記念日です。当時のことを思い出し振り返ってみました。
国民学校三年生の夏
学校の防空壕の補強材として山の木を切りに出かけ、自分たちで運べる本数を上級生とともに担いで家に着くと、父母たちが戦争に負けたらしいとの噂で大騒ぎをしていた。地区で1軒しかない万屋のおじさんが噂の発信源らしい。「そんなことを言うやつは巡査に引っ張られるぞ」、「非国民だ」などといっていたが、やがてラジオの雑音の中で天皇陛下の声や大人の雰囲気で自分なりに敗戦を確認して大泣きをしたものである。
それまで、日立(日立市)の工場群が艦砲射撃されたとか、平(現いわき市)の小学校に1トン爆弾が落とされたとか戦争被害を大人たちが話題にしていたし、山間の村の空高くグラマン艦載機が編隊を組んでいくと暫くして地響きとともに爆弾の音、音,郡山市周辺の工場や飛行場爆撃し、身軽になった艦載機がバラバラになって駅の給水塔とか鉄橋とか鉄道施設を連日のように機銃掃射していく姿がその日を境にパタリと見られなくなった。
しばらくして学校がはじまり、教科書の一部に原稿用紙を貼って別の文字を書き加えさせらたり、新聞紙のような教科書が配られたり(各自が切り取りして紙縒りで綴じさせられた)、習字の時間がなくなり、ローマ字の学習が始まったりと大きな変化が起きた。今考えると、当時はあまり疑問も感じず先生の指示通りに受け入れていたが、多くの先生方は苦悶しただろうと思う。
時を経て田舎に帰省すると、学校の防空壕も松の根を掘り出し炭窯のような所で松根油を搾った場所もその痕跡すらなく、そこに存在したことすら知らない村人が大半である。平和な時を大事にしたいとつくづく思う。(習字は精神統一し、武士道につながり軍国少年を育てるという理由とか先生は話した)
追記 気をつけ!前倣え!回れ右!などと言った号令も軍国主義に通じると言うことで一時しなかった。厳しかった先生が、「はい、並びましょう」と言うようになったことが妙に印象に残っている。マッカーサーの指令は全国津々浦々に行き渡った、、。
昨日は 10,077歩