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2018.1 弟の死 ~これまでの人生で一番の悲しみ~

2018-01-17 23:41:15 | いろいろ思う部屋
 悲しくて悲しくて、次から次へと涙が込み上げてくる。弟は離れて暮らしていても、ずっとずっと僕の後ろにいつづけるものと信じていた。ところが・・・。
 先週金曜日12日の夜、知多に住む二つ年下の弟が天国行きのキップを持って旅立って行った。たった二人の兄弟。子供の頃の思い出の中にはいつも僕の隣に弟がいた。歳が近く、いつも一緒に遊んだり、地域の活動に参加したり、そして、両親と家族4人で楽しく過ごした子どもの頃の思い出。
 悲しくて涙が込み上げてくる原因は、弟が亡くなったことはもちろんだが、実は弟の最後の電話に出られなかったことだった。
 弟は去年の夏くらいから体調を崩し、秋口からは入退院を繰り返していた。正月3日に再び入院。そして、病状が急変し意識がほとんどなくなってしまったのが11日の木曜日だった。そのまま意識がはっきりすることなく翌金曜日に旅立ってしまったのだった。
 遠距離通勤をしている僕は仕事の関係で月曜日まで病院に行くことができず、電話で奥さんにそのことを伝えておいた。奥さんの話では、弟は薄らいだ意識の中で、月曜日に兄の僕に会うことをすごく楽しみにしていたとのことだった。しかし、月曜日を迎えることなく、旅立ってしまった。
 意識が薄れる前日の夜9時10分、僕のスマホに着信があった。11時過ぎに着信履歴で知った僕は、入院中の弟に電話をかけ直すこともできず。とりあえず励ましのメールを送っておいた。「月曜日に行くから」と。・・・結局、弟はそのメールを見ることなく死んでしまったのだった。
 弟は兄の僕をすごく頼りにしていた。会う度に、そして、子どもの頃も、それをすごく感じていた。最後の電話で、僕に何を伝えようとしたのか。それが「さようなら」だったら・・・。年賀状の弱々しい文字の「元気でね」だったら・・・。それとも「ありがとう」・・・。
 僕は、まだまだ弟は大丈夫と思っていた。そう信じていた。まさか、すぐに逝ってしまうなんて思ってもみなかった。
 なぜ仕事をほっぽって知多まで行ってあげられなかったのか。ちゃんと電話に気づいてあげていたら。悔やんでも悔やみきれない。
 大好きな弟が、最後に言いたかったことを聞いてあげられなかったことが悔しくて悔しくて。金曜日の夜、病院に駆け付け、動くことのない弟に、何度も何度も心の中で「ごめんね」「ごめんね」を繰り返して言った。
 さようなら、弘道。
 ごめんな、弘道。



 日曜日の夜にお通夜、月曜日にお葬式が営まれた。まだ逝く歳に達してないはずの弟。深い悲しみの中で弟の葬儀が終わった。
 終わって初めて気づいたのは弟の存在の大きさだった。僕には弟の弘道がいる。それがどれだけ心の支えになっていたことか。高齢の両親に何かあって困った時、呼べばどんなに忙しくても知多からすっ飛んで来てくれた。僕よりずっとずっと優しい心の持ち主だったと思う。葬儀では、子供の頃によく一緒に遊んだいとこたちが「弘道はほんとにかわいいヤツだった」と涙を流してくれた。
 金曜日の夜に息をひきとってから葬儀、初七日が終わるまでの3日間、奥さんと娘さんは深い悲しみと戦いながら精力的に動いていた。これから始まる母娘二人だけの家族。僕以上に悲しみは大きかったと思う。弟の奥さんは、それでも喪主として悲しみをこらえて頑張り抜いたのだと思うと僕も心が痛む。そして我が子を失った母。愛する夫とかわいい次男をわずか2年足らずの間に失った今、母はどんな気持ちで葬儀の時を迎えたのだろう。



 僕が出られなかった弟・弘道からの最後の電話。意識がなくなる直前に、僕に何かを伝えようと、最後の力をふりしぼってかけた電話。僕は弘道が何を伝えようとしたのか、金曜日からずっと考え続けていた。
そして、出た答。
「(残された家族)二人のことを頼む。」だったのではないか。
 今は、何よりも家族を大切に思っていた弘道のことだから絶対にそうだと確信している。
 何もしてあげられないかもしれないけど、僕にとって弘道がそうだったように、二人にとって少なくとも心の支えにはなってあげられるようになることが、弘道への感謝の気持ちだと思う。

 最後になりましたが、弟・弘道が生前大変お世話になりました。心より御礼申し上げます。



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コメント (2)
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