産経新聞で司法記者クラブ検察担当、国税・公取・証取担当後、現在社会部次長の著者が、「ノーパンしゃぶしゃぶ」で有名になった大蔵省課長補佐の接待収賄事件と防衛利権に絡むフィクサーと言われた人物の脱税事件を題材に、近年の東京地検特捜部の捜査能力の低下とマスコミ利用やメンツを保つための捜査・起訴などの志の低下を論じた本。
接待収賄事件の過程で検察が接待に同席していた検察官の存在を隠したこと(29~34、58~60、71~75ページ)や、脱税担当の検察官を国税が高級割烹で接待していたこと(52~54ページ)、そして検察庁が大蔵省の役人を検挙する度に大蔵の天下りポストが検察OBに移ったこと(54~58ページ)などの指摘には頷かされます。「当時の特捜部にとって真実とは、事実に即したストーリーである必要はなく、法廷で覆されることのないストーリーであればよいと考えていたように思える」(49ページ)という辛辣な指摘もあります。
ただ、著者の指摘する捜査力の低下と志の低下は、果たして特捜部だけのことかということには、著者は一切切り込みません。
著者の動機が後の事件の「フィクサー」が知人で自分が弁護士を紹介した関係にあり、知人が追い込まれる様をつぶさに見て「これまで東京地検が発表した逮捕の記事は数え切れないほど書いてきたが、被疑者の側に立ってみて初めてわかったのは、1通の逮捕状がどのようにその人の人生を破壊するのかということ、そして、検察が描いた筋書きを真に受けて報道するのがいかに無責任な行為なのかということだ。」(23ページ)とされています。逮捕された人の人生が破壊されるのは一般事件でもそうですし、著者が指摘している自白しなければ保釈されずに長期拘留される人質司法も一般事件でも同じです。
批判の対象を特捜部のみに限定することは、その事実に目をつぶり、特捜部の摘発対象である政治家や官僚、財界人などの利害だけを代弁することでもあります。著者が前半で取りあげている接待収賄事件の捜査批判も著者が担当していた国税=大蔵官僚の利害を代弁しているだけとも読めますし。
そのあたりの動機と、批判対象を特捜部のみに限定することの政治性には疑問を感じますし、その特捜部を英雄視して提灯記事を書き続け検察のやることすべてを正当化し、検察と一緒になって被疑者・被告人を痛めつけてきたマスコミ人としての反省が今ひとつ感じられないうらみはありますが、現役の司法記者が検察・特捜を批判した数少ない本であることは評価しておきたいと思います。
石塚健司 講談社 2009年4月10日発行
接待収賄事件の過程で検察が接待に同席していた検察官の存在を隠したこと(29~34、58~60、71~75ページ)や、脱税担当の検察官を国税が高級割烹で接待していたこと(52~54ページ)、そして検察庁が大蔵省の役人を検挙する度に大蔵の天下りポストが検察OBに移ったこと(54~58ページ)などの指摘には頷かされます。「当時の特捜部にとって真実とは、事実に即したストーリーである必要はなく、法廷で覆されることのないストーリーであればよいと考えていたように思える」(49ページ)という辛辣な指摘もあります。
ただ、著者の指摘する捜査力の低下と志の低下は、果たして特捜部だけのことかということには、著者は一切切り込みません。
著者の動機が後の事件の「フィクサー」が知人で自分が弁護士を紹介した関係にあり、知人が追い込まれる様をつぶさに見て「これまで東京地検が発表した逮捕の記事は数え切れないほど書いてきたが、被疑者の側に立ってみて初めてわかったのは、1通の逮捕状がどのようにその人の人生を破壊するのかということ、そして、検察が描いた筋書きを真に受けて報道するのがいかに無責任な行為なのかということだ。」(23ページ)とされています。逮捕された人の人生が破壊されるのは一般事件でもそうですし、著者が指摘している自白しなければ保釈されずに長期拘留される人質司法も一般事件でも同じです。
批判の対象を特捜部のみに限定することは、その事実に目をつぶり、特捜部の摘発対象である政治家や官僚、財界人などの利害だけを代弁することでもあります。著者が前半で取りあげている接待収賄事件の捜査批判も著者が担当していた国税=大蔵官僚の利害を代弁しているだけとも読めますし。
そのあたりの動機と、批判対象を特捜部のみに限定することの政治性には疑問を感じますし、その特捜部を英雄視して提灯記事を書き続け検察のやることすべてを正当化し、検察と一緒になって被疑者・被告人を痛めつけてきたマスコミ人としての反省が今ひとつ感じられないうらみはありますが、現役の司法記者が検察・特捜を批判した数少ない本であることは評価しておきたいと思います。
石塚健司 講談社 2009年4月10日発行