近時の新大久保等での排外主義デモに代表されるマイノリティに対する差別・侮辱・排除の言葉による攻撃などの「ヘイト・スピーチ」について、日本の現状と諸外国の法規制を検討し、日本でも法規制を行うべきことを主張する本。
「ヘイト・スピーチとは何か」というタイトルから最初に期待されるヘイト・スピーチの定義は、実はこの本を読んでもハッキリとはしません。この本の中心的な論点は、そして弁護士の視点からかもしれませんがこの本の読みどころは、諸外国の法規制を検討する第3章とそれと日本の現状と議論を対照する第4章にあるのですが、そこまで読んで改めて著者が第1章と第2章で語りたかったこと、そしてこのタイトルが意味するところが、ヘイト・スピーチによりマイノリティ側が受ける被害、そこに焦点を当てて捉えるべき「ヘイト・スピーチの本質」であることがわかります。著者の主張は、国際標準を形式的な説得材料とするとともに、実質的あるいは心情的にはマイノリティに対する差別・迫害がヘイトスピーチの本質でありその攻撃とマイノリティの被害が不可分一体であることをより有力な根拠としているように、私には思えます。
表現の自由の規制と権力によるその濫用への危惧を感じる者(そこには良心的なリベラリストが多く含まれる)に対し、何よりもヘイト・スピーチによって攻撃を受けるマイノリティの被害・ダメージの深刻さを直視するよう迫る論の運びには心を揺さぶられます。この論理は、ヘイト・スピーチの本質がマイノリティに対する攻撃であり、規制により守る/防ぐべきものはマイノリティの被害であるから、規制対象はマイノリティに対する攻撃のみにすべき(マイノリティのマジョリティに対する言論や民衆の権力に対する言論は対象にすべきでない)という片面的な規制を求めるという方向を志向することになると私には思えます。著者も「規制の対象をマイノリティに対する差別的表現に限定することは、最も重要なことであろう」と述べています(209ページ)。その方向性は、私にはむしろそうあるならば望ましいと思えますが、この国でそのような制度が官僚や政治家、裁判所に容認されるのか、立法される時には違った形(官僚の手にかかれば似ても似つかないもの)になってしまうのではないかという危惧を持たざるを得ません。著者自身が、「明文でマイノリティに対する表現に限定している例は多くない」として実例としては中国刑法第250条を挙げるのみである(209ページ)ことも、そのあるべき方向の法規制の実現の難しさを物語っているように思えます。
法規制を巡る難しさと迷いを感じながら、第1章の2の京都朝鮮学校襲撃事件の紹介と第2章の2のマイノリティの被害を読み返して思いを新たにするというあたりが標準的な読み方かも。
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師岡康子 岩波新書 2013年12月20日発行
「ヘイト・スピーチとは何か」というタイトルから最初に期待されるヘイト・スピーチの定義は、実はこの本を読んでもハッキリとはしません。この本の中心的な論点は、そして弁護士の視点からかもしれませんがこの本の読みどころは、諸外国の法規制を検討する第3章とそれと日本の現状と議論を対照する第4章にあるのですが、そこまで読んで改めて著者が第1章と第2章で語りたかったこと、そしてこのタイトルが意味するところが、ヘイト・スピーチによりマイノリティ側が受ける被害、そこに焦点を当てて捉えるべき「ヘイト・スピーチの本質」であることがわかります。著者の主張は、国際標準を形式的な説得材料とするとともに、実質的あるいは心情的にはマイノリティに対する差別・迫害がヘイトスピーチの本質でありその攻撃とマイノリティの被害が不可分一体であることをより有力な根拠としているように、私には思えます。
表現の自由の規制と権力によるその濫用への危惧を感じる者(そこには良心的なリベラリストが多く含まれる)に対し、何よりもヘイト・スピーチによって攻撃を受けるマイノリティの被害・ダメージの深刻さを直視するよう迫る論の運びには心を揺さぶられます。この論理は、ヘイト・スピーチの本質がマイノリティに対する攻撃であり、規制により守る/防ぐべきものはマイノリティの被害であるから、規制対象はマイノリティに対する攻撃のみにすべき(マイノリティのマジョリティに対する言論や民衆の権力に対する言論は対象にすべきでない)という片面的な規制を求めるという方向を志向することになると私には思えます。著者も「規制の対象をマイノリティに対する差別的表現に限定することは、最も重要なことであろう」と述べています(209ページ)。その方向性は、私にはむしろそうあるならば望ましいと思えますが、この国でそのような制度が官僚や政治家、裁判所に容認されるのか、立法される時には違った形(官僚の手にかかれば似ても似つかないもの)になってしまうのではないかという危惧を持たざるを得ません。著者自身が、「明文でマイノリティに対する表現に限定している例は多くない」として実例としては中国刑法第250条を挙げるのみである(209ページ)ことも、そのあるべき方向の法規制の実現の難しさを物語っているように思えます。
法規制を巡る難しさと迷いを感じながら、第1章の2の京都朝鮮学校襲撃事件の紹介と第2章の2のマイノリティの被害を読み返して思いを新たにするというあたりが標準的な読み方かも。
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師岡康子 岩波新書 2013年12月20日発行