伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年に続き2023年も目標達成!

司法権力の内幕

2014-04-11 19:42:00 | 人文・社会科学系
 かつて裁判官であった著者が、日本の裁判官が検察権力・警察権力を含めた司法に関連する国家権力全体の有機的関連性から発する個人の思惑を超えた作用に絡め取られ、有罪率99.8%以上、検察官控訴認容率全国で2/3、東京で3/4(高裁の裁判官は1審の裁判官より検察官を信頼するのか?)、勾留請求認容率99%超という異常な事態を異常とも思わなくなり権力に同化していく心理を論じた本。
 最高裁事務総局の支配という捉え方に対しては、現場の裁判官には最高裁事務総局勤務を羨んでいる者は少ない、民間企業からの転向組は決してそれを希望しない(人事や総務や経理の仕事がいやで裁判官に転じたのだから)、事務総局に長くいると裁判ができなくなるとむしろ不評であったりすると、反論しています。では著者が裁判官が「司法囚人」となる原因をどこに求めているかというと、ミシェル・フーコーが論じた「パノプティコン(一望監視施設:看守塔のまわりに監房を配置した監獄のようなシステム)」を引き合いに出した相互監視のメカニズムによる権力にふさわしい行動様式の内面化、自己同調的な権力行使というようなイメージ・ニュアンスになります。冒頭がカフカの審判で、「司法囚人」としての裁判官の行動様式とその原因に話が及ぶとフーコーのパノプティコンというのは、観念的に過ぎて、どこかはぐらかされているような気持ちになります。あとがきによれば、これでも「もとの原稿の社会思想、現代思想の部分を思い切って削り」(221ページ)とされているのですが。
 現実の刑事裁判での冤罪に至る判断や、冤罪を見抜いた裁判官が裁判官を辞めて弁護士になったり苦しんで無罪判決を書いたりした事例の紹介は、裁判所内部での見聞も相当あるのでしょう、読み応えのある記述が多数あります。それだけに、著者が一番言いたいはずの裁判官の権力同化志向の原因・根源が抽象論・観念論に集約されるのが、読んでいて隔靴掻痒の感があります。
 「裁判官は、外で酒を飲むことも制限されている。ホステスなど女性がいる店に行くことなど到底叶わない。(略)賭けマージャンなど論外で、雀荘ではもちろん、内輪でも絶対にできない」(51ページ)…う~ん、私は司法修習生の時、もう30年も前ですが、度々裁判官と酔いつぶれるまで外で飲み、確か裁判官に連れられてホステスのいるクラブに行き、裁判官と賭けマージャンをしたような気がするのですが、記憶違い、かなぁ…まぁ同期で聞いても、他の修習地ではそういうことはないと言われましたから特殊だったのかもしれませんが。


森炎 ちくま新書 2013年12月10日発行
コメント
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