伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年から3年連続目標達成!

抱く女

2016-08-07 01:01:36 | 小説
 1972年秋冬の吉祥寺界隈を舞台に、雀荘とジャズ喫茶などで無為に過ごすノンポリ貧乏学生三浦直子が男尊女卑的な世相/文化の中での女の生きづらさ、居場所のなさを嘆き愚痴る姿を通して、時代の雰囲気を描いた小説。
 三浦直子が関係を持った友人たちの言葉に激しく憤慨する「公衆便所」という言いぐさに男尊女卑的な価値観/ダブルスタンダードがあることは、そうだと思いますし、私も、自分が関係を持っておいてその相手を「公衆便所」だとか「ヤリマン」だとか呼ぶ人には、少なくとも好意を持ったから関係を持ったのだろうしそうでなくてもしたかったからしたわけで「お世話になった」相手にそういう言い方はないだろうと、そういう人自身に人としての卑しさを感じます。ただ、この作品のタイトルにもなっている「抱かれる女から抱く女へ」というかつて人気のあったスローガンが、「性革命」「自由な女」同様に男に都合のいい女像へと誘導する利用のされ方をした側面があったとしても、この思想自体は主体性の問題で、多数の男と(手当たり次第)関係を持つことを勧めているわけでも前提としているわけでもないし、多くの場合「公衆便所」などというのは一度関係を持てば「俺の女」意識を持つ俺様男が相手が別の男とも関係を持ったことを知って負け惜しみでいうのでしょうから、そのようなレベルの低い相手の他者からの評価など気にせず受け流す態度が、主体性を持つ「抱く女」「自由な女」にふさわしいと思います。三浦直子のように日常的に会うマージャン仲間の中で3人と次々と関係を持てば、自分は特別と思っていた男が失望して文句を言い、仲間内で評判が下がるのは、ごく当然の流れでしょう。その背景に男尊女卑的なダブルスタンダードがないとは思いませんが、でも、男が彼女とその友だちとも肉体関係を持ちそれが発覚すれば、具体的な言葉はさておいても、その女性間でその男はより厳しく断罪され軽蔑されると思いますけど。
 三浦直子が、中ピ連のコミューン開所の集会に参加して、自分が「公衆便所」といわれたことを憤慨して、差別だ、絶対にこういう言葉を許してはいけないなどと発言し、それが受け容れられなかったことを「リブの女たちも優しくはなかったし、フェアでもなかった」(152ページ)としていることには、強い疑問を持ちます。運動の一つの結節点と位置づけられる集会に、それまでの運動に何一つ貢献せず関係もなかった人物が参加して、集会の趣旨と関係もない自分の鬱憤晴らしの発言をして、それが受け入れられなかったから、その運動に対して非難するというのは、井の中の蛙以上に視野の狭いジコチュウの八つ当たりにしか見えません。作者がどういうつもりで、実在した運動団体をこのような極めてアンフェアなやり方でやり玉に挙げているのかわかりませんが、良識を疑います。連合赤軍事件で山岳ベースへの参加に際して指輪や化粧などをしていたことを革命戦士としての覚悟が足りないと追及された遠山美枝子は、山岳での振る舞いについて認識がなかったとしても赤軍派内で活動経験を積み人望がありました。まったく運動に参加せず、突然集会に参加して場違いな発言をして受け容れられないことを憤慨するお手軽なジコチュウの三浦直子に「またか。自分は『遠山美枝子』なのだ。」(158ページ)などと語らせるのにも、辟易します。
 1972年を学生として過ごした人が、学生運動とかに関わっていた学生ばかりじゃない、その周辺で澱んで行き場のない学生も多かったんだという事実を遺したいとか、時代の雰囲気を描きたいということで書き、そして読むという、その限りの作品だろうと思います。


桐野夏生 新潮社 2015年6月30日発行
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする