伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年から3年連続目標達成!

完訳 Oの物語

2009-10-14 23:07:14 | 小説
 恋人の手で館に連れ込まれ突然鎖で拘束されむち打たれレイプされ続けながらそれを恋人の愛と受け取り「隷従の幸福」を感じ、恋人からより冷酷でわがままな人物に譲り渡されても、当初は恋人の愛故、後には新たな主人への隷従の喜びを見出してゆく若い女性「O」を描いたかつて「O嬢の物語」と訳された作品を第1部として、続編としての序文「恋する娘」と「ふたたびロワシーへ」を第2部として組み合わせた新訳本。
 第1部は、基本的には、剥き出しの暴力を受け支配される女性に、隷従に幸福を見出せ、苦痛を耐え凌いだことに喜びを見出せ、さらには自ら支配されることを自主的に喜んで選べというもので、権力者に都合のいい物語です。より低俗に言えば、レイプされ続けるうちに被害者が喜び始めるというレイプ物のアダルトビデオや、どうしようもない暴力男を「私がいないとこの人はダメになってしまう」と錯覚して絡め取られ地獄から抜け出せないDV妻の世界、つまり「いやよいやよも好きのうち」という妄想男と暴力も愛の現れという勘違い女。しかしそれが観念的抽象的な観点とむしろ上品な筆致で描かれているだけに、より高級な思想性を持つものと受け止められるところがたちが悪い、と思います。
 第2部は、第1部で観念的で官能的に描かれていた「O」の姿が、経済ヤクザの主人のビジネスのために他の男に与えられる高級娼婦として世俗的に描かれ、第1部で「O」の信じた主人の愛とそれを信じる自分が幻想であり妄想であったことが帰結されています。
 果たして同一人物が書いたのかさえ疑われるこの第2部は、少なくとも、「隷従の喜び」を感じる女の錯覚・妄想を色褪せさせ失望させるものではあります。でも、妄想男たちは、「いやよいやよも好きのうち」の便利(都合のいい)女が頭の足りないヤツだと思うだけで、そんな女がいないと目覚めさせる効果はないように思えます。
 今、敢えてこの作品の新訳を出版するセンスには疑問を持ちました。


原題:HISTOIRE D’O
ポーリーヌ・レアージュ 訳:高遠弘美
学習研究社 2009年7月21日発行 (原書は第1部1954年、第2部1969年)
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12歳からの現代思想

2009-10-13 22:47:18 | 人文・社会科学系
 著者の「はじめに」によれば「小学校の4年生ぐらいから読めるにしたい」という目標で、いくつかの分野分けをして現代思想を紹介した本。
 小学生が読めるかは(無理だろうと思いますけど)ともかく、議論のパターンは観念的で、対立する主張の相手方にいくらかでも問題点があればそれで正しいとは言えない→どちらも同じ、正しい価値観や理想(大きな物語)は失われたという論じ方が目につき、理想に向けて少しずつでも努力しようという方向性を否定し冷笑する姿勢が目につきます。
 監視社会は便利なツールで普通の人には監視は怖くない、監視があってこそ自由が守れるなどと論じられ、環境保護派は批判され、クローン人間や兵士のサイボーグ化は批判されず、権力は近代社会ではあからさまな強制力と捉えるべきではなく権力の遍在・内在が語られて現実を変革する方向性は見えないとされ、自由や平等は民主主義は様々な議論があり難しいとされます。
 私には、どうも全体が、権力者や企業に対する批判や制約を緩める方向に向いているように思えます。
 こういう本を子どもに読ませるとしたら、権力を見据えたり理想を語ることはなく、言葉遊びばかり達者で努力嫌いなニヒリストが育つことになると思うのですが。


岡本裕一朗 ちくま新書 2009年9月10日発行
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絞首刑

2009-10-12 21:00:44 | ノンフィクション
 死刑執行の標準的な手順をドキュメンタリーふうに綴る第1部と、死刑判決があった5つの事件の関係者への取材に基づく事件と裁判の概要とその後の加害者の状況や被害者・遺族の状況を語る第2部からなる死刑をめぐる関係者の思いをレポートした本。
 死刑執行に関わる人々の苦悩や、反省を重ね遺族から恩赦請求まで出されながら死刑執行された死刑囚や、無罪を主張し続けながら死刑執行された後ほぼ同時期のほぼ同じ技官によるDNA鑑定の信用性が足利事件で否定された死刑囚の例を読んでいると、死刑という制度自体への疑問と、それ以上に昨今の厳罰化を求める「世論」とそれを煽り続けるマスメディア、激増している死刑判決への強い疑問を感じます。
 もちろん、いわれなく殺害された被害者やその遺族の悲しみ・悔しさを軽視することも問題だと思います。しかし、昨今の激しく加害者を糾弾し極刑を求める遺族の映像を全く無批判に正しい姿として延々と垂れ流すマスメディアによって、加害者に極刑を求めることがスタンダード化されて被害者・遺族にそのような態度を取るべくかけられたプレッシャーにより、ステレオタイプ化した被害感情がエスカレートしているようにも感じられます。
 この本で登場する死刑囚と遺族は、どちらかというと死刑制度と死刑執行に疑問を感じさせる側の事例に寄っているとは思いますが、マスメディアではその反対側ばかりが見られることを考えると、バランスが取られているのかなとも思います。
 タガが外れたように厳罰化に突き進む現在の日本の刑事司法を少し冷静に議論するための材料として有益な本だと思います。


青木理 講談社 2009年7月24日発行
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「特捜」崩壊

2009-10-08 22:57:48 | ノンフィクション
 産経新聞で司法記者クラブ検察担当、国税・公取・証取担当後、現在社会部次長の著者が、「ノーパンしゃぶしゃぶ」で有名になった大蔵省課長補佐の接待収賄事件と防衛利権に絡むフィクサーと言われた人物の脱税事件を題材に、近年の東京地検特捜部の捜査能力の低下とマスコミ利用やメンツを保つための捜査・起訴などの志の低下を論じた本。
 接待収賄事件の過程で検察が接待に同席していた検察官の存在を隠したこと(29~34、58~60、71~75ページ)や、脱税担当の検察官を国税が高級割烹で接待していたこと(52~54ページ)、そして検察庁が大蔵省の役人を検挙する度に大蔵の天下りポストが検察OBに移ったこと(54~58ページ)などの指摘には頷かされます。「当時の特捜部にとって真実とは、事実に即したストーリーである必要はなく、法廷で覆されることのないストーリーであればよいと考えていたように思える」(49ページ)という辛辣な指摘もあります。
 ただ、著者の指摘する捜査力の低下と志の低下は、果たして特捜部だけのことかということには、著者は一切切り込みません。
 著者の動機が後の事件の「フィクサー」が知人で自分が弁護士を紹介した関係にあり、知人が追い込まれる様をつぶさに見て「これまで東京地検が発表した逮捕の記事は数え切れないほど書いてきたが、被疑者の側に立ってみて初めてわかったのは、1通の逮捕状がどのようにその人の人生を破壊するのかということ、そして、検察が描いた筋書きを真に受けて報道するのがいかに無責任な行為なのかということだ。」(23ページ)とされています。逮捕された人の人生が破壊されるのは一般事件でもそうですし、著者が指摘している自白しなければ保釈されずに長期拘留される人質司法も一般事件でも同じです。
 批判の対象を特捜部のみに限定することは、その事実に目をつぶり、特捜部の摘発対象である政治家や官僚、財界人などの利害だけを代弁することでもあります。著者が前半で取りあげている接待収賄事件の捜査批判も著者が担当していた国税=大蔵官僚の利害を代弁しているだけとも読めますし。
 そのあたりの動機と、批判対象を特捜部のみに限定することの政治性には疑問を感じますし、その特捜部を英雄視して提灯記事を書き続け検察のやることすべてを正当化し、検察と一緒になって被疑者・被告人を痛めつけてきたマスコミ人としての反省が今ひとつ感じられないうらみはありますが、現役の司法記者が検察・特捜を批判した数少ない本であることは評価しておきたいと思います。


石塚健司 講談社 2009年4月10日発行
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タラ・ダンカン6 マジスターの罠 上下

2009-10-06 22:25:34 | 物語・ファンタジー・SF

 魔術が支配する「別世界」の人間の国「オモワ帝国」の世継ぎの14歳の少女タラ・ダンカンが、様々な敵対勢力の陰謀や事件に巻き込まれながら冒険するファンタジー。作者が10巻まで書くと宣言しているシリーズの第6巻。
 基本的に小学校高学年から中高生までの女子を読者層としていると思いますが、ここにきて、奴隷制との闘いをテーマに盛り込み始め、ほんの少しメッセージ性を出してきました。ハリー・ポッターが巻を追うにつれて反ファシズムのメッセージを濃厚にしていったことを意識しているのでしょうけど、それはそれとして評価したいと思います。
 また、リスベス女帝(タラの伯母)とタラのしたたかさというか帝王学・マキャベリズム色も強まってきて、キャラ設定としても楽しめます。女の子の主人公をサメにたとえる(下巻123ページ)ファンタジーなんて、ちょっとないと思いますよ。ただ、日本語版のイラストは本文を無視していつまでも小学生ふうのロリータ顔ですが。
 しかし、1巻からずっとそうなのですが、展開の速さというか敵味方の入れ替わりというか登場人物の言動のブレが大きいのには、ついて行きにくい。この巻でタラの最大の敵のはずのマジスターがタラに語る話は、敵味方が単純ではないことを意味し、重層的な展開を期待させもしますが、本当にきちんと筋立てて最後には、あぁあのときの言動にはこういう裏があったのかと納得させてくれるのか、どうも心配が残ります。どことなく読者の予想を裏切り驚かせることに重きが置かれ場当たり的に展開しているような気がしてならないのですが。
 タラの15歳の誕生日(下巻76ページ)前に15歳のタラと書いてみたり(上巻314ページ)、地球の成層圏は1万2000キロメートル上空と書いてみたり(上巻298ページ:1万2000メートルの間違いですよね。3桁違います)、ケアレスミスが目につくのも気になります。社会派色を出して読者層を拡げる意欲があるならもう少し丁寧に作り込んで欲しいなと思います。


原題:TARA DUNCAN ,DANS LE PIEGE DE MAGISTER
ソフィー・オドゥワン=マミコニアン 訳:山本知子、加藤かおり
メディアファクトリー 2009年7月31日発行 (原書は2008年)
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