以前このブログで、松林寺の過去帳から、宝暦の大凶作のことを書きました。250年前にこんなことがあったのだという驚きで書いたのですが、この度縁あって「昭和東北大凶作ー娘身売りと欠食児童ー」(山下文男著・無明舎)という本を手に入れて読んだところ、何と昭和のはじめの飢饉もかなりのものだったことが分かりました。
昭和4年、アメリカの株価暴落に端を発した世界恐慌は、日本経済にも大きな影響を及ぼし、生糸相場が大下落したために農産物全体が大打撃を受けました。
それに加えて6年と9年の凶作が重なり、北海道、東北は壊滅的な状況となりました。
昭和9年といえば私の母親が生まれた年、たかだか80年に満たない頃の話です。
凶作に加えて農民を苦しめたのは、財政危機に陥った政府が、それまで目をつぶってきた国有地・国有林の開墾地を、払い下げするので金を出せと迫ったことです。期限までに収めないと没収して競売にかけるという一方的な通告をしてきました。
稗やワラビの根、木の実などで飢えをしのいでいた農民にお金などあろうはずもなく、借金の取り立てに責められるばかりの状態でした。
そのために多くの娘たちが売られていったのです。
山形県の中でも最上郡がもっとも酷く、2年間で2000名の娘が売られたと当時の新聞に書かれています。その中でも東小國村・西小國村(現最上町)がもっとも多かったと記録には見えます。
松林寺の過去帳を見ると、やはり昭和9年から11年にかけて、普段の年の1.5倍から2倍の死亡が記されています。
全国的な救援などもわずかばかりあったようで、宝暦の飢饉のようにばたばたと死んでいくことはなかったようですが、その分、若い娘が親から引きはがされ売られて苦界に身を沈めたということなのでしょう。
そういう事実の上に現代の我々が生きているのだということを知らなければならないと、強く思いました。