なあむ

やどかり和尚の考えたこと

大震災4 現地報告1

2011年03月19日 21時45分57秒 | 東日本大震災

今日山形に戻りました。被災地はほとんど電話が通じないので、これまでのレポートをまとめてUPします。その第1弾です。

東北関東大震災現場報告 1

3月15日
09:30 松林寺出発 同行小野貴之
47号線、池月から一泊、築館方面へ
水ー20リッターポリタンク4本、2リッターペットボトル42本
食料ー少々
卓上コンロ、ボンベ4本
気仙沼方面へ、
本吉町手前まではスムーズに行けた。
手前で津波の現場に到着
本吉、峰仙寺訪問、寺も山内も無事
 拠点についても受け入れ可能
本吉、清涼院訪問
 国道45号線を通れば、峰仙寺から清涼院までわずかな距離だが、途中津波で破壊されて通れない。
 清涼院、建物山内は無事、30名ほど寺に避難している、ほかに130名ほどに炊き出しをしていた
 水と少しの食料を置いて移動
本吉から県道65号本吉気仙沼線で気仙沼市内へ
 市街地は車と泥、瓦礫が散乱し、市民はその片づけを始めていた
 ここが本当に日本なのか、難民キャンプを訪れたときのような既視感を感じた。
発災直後から火災が発生した対岸は、いまだに消防関係車両が入って、一般車両の通行はできない様子だった。
気仙沼から陸前高田へ移動
45号線は問題なく通行できる
高田の惨状は言葉にできない
津波に襲われなかった地区は、建物の倒壊もほとんど見られず、被災地とは思われないほど、しかし、ある一線で、津波に襲われた地区は建物そのものが廃材の山と化して、この一線のあまりに大きな境界に息を呑む思いだった。
高田市街地は、わずかに数棟の建物を残し言葉通りの壊滅状態。それが行けども行けども原野のごとく続く光景は、本当にここが日本という国なのかと目を疑うばかりだ。
高田市街地から細い山道を迂回して寒風光照寺へ。
通常の道は遮断されているため、老人ホームの裏の松林をぬってようやく到着。
寺と山内は無事、家族を失った数人が身を寄せていた
水を40リッター置く
高田の港のすぐ側にあった野球場の照明塔の上を津波が越えてきたということで、照明塔の高さが15メートルだから、津波の高さは海岸で15メートルあったという話を聞いた。
それが一気に市街地に押し寄せたのだから、逃げる間もなく、家ごと飲み込まれたということなのだろう。
高田の場合は海岸沿いだけでなく、津波は川をさかのぼり、海岸から8キロまで達していた。線路のレールまで流され、水の威力の恐ろしさを感じた。
自衛隊員が瓦礫でふさがった道路を通行できるように片付けていた。
また、消防関係者が遺体の捜索を行っていた。
被災者が、自分の家があったあたりを遺留品を探して歩いていた。
物資を運ぶにも、救急車が移動するのにも道路の確保が最優先であることが分かる。
15日は、被災地の概観と数箇所の寺院を回っただけだが、それぞれがそれぞれの場所で何とか生きるのが精一杯で、他地区の情報は全くといっていいほど入手できていなかった。
電気の復旧とかかわっているのだが、家族や知人との安否確認、情報交換ができればある程度の不安は解消され、頑張ろうと意欲も湧いてくるのではないか。
昨晩は、夜中何回か余震があり、何度も目を覚ました。畳の上で寝袋の中で寝ても体は休まれない。体育館で毛布一枚で寒い中で寝ている避難者は、もう既に限界を超えているに違いない。
被災地があまりも広範囲であるために、手が回らないのだが、道路の整備、救命、遺体捜索が一段落すれば、各地からの援助物資も被災地入りできるようになるだろう。もう間もなくのことと思われるので、何とか凌いでいただきたいと祈るばかりだ。
16日は、気仙沼の避難所を中心に回ってみるつもりだ。
被災地の中に入れば通信手段がほとんど途絶えるため、明日も連絡ができるか約束はできない。

3月16日
高建寺さんから本吉経由で気仙沼へ。
気仙沼市大谷海岸も壊滅状態。同じく最知駅付近も壊滅状態。
昨日は通れなかった本吉から気仙沼への45号線が、緊急救援車両に限り通行可能になっていた。
車を失った人、あってもガソリンがない人だと思われる人々が、自転車または徒歩で物資を求め道路わきを移動していた。
鹿折小学校へ、近所の人たちが1階部分の泥片付けをしていた。今後ここも避難所になる可能性もあるとのこと。
避難所の情報を聞いて東陵高校へ。
東陵高校
現在200名が避難、その3分の1は高齢者。高校の寮生が寮に入っているが、間もなく燃料がなくなればここに収容される可能性がある、今後300名規模になるだろうとのこと。
水、食料は2日前から入ってきている。
欲しいのは、プロパンガスボンベ、灯油、仮説トイレ、お湯を沸かして体を拭くための桶や沸かすためのズンドウなどがあればありがたい。
足湯などもあればいいのではないか。

Kウェーブ(総合体育館)
1600名
水タンク、仮設トイレ、仮設電話が完備され、気仙沼市最大の避難所。
医務室では医師が診察も行っていた。
施設の責任者にボランティア受け入れの話を伺うと、まだ立ち上がっていないが、それは社会福祉協議会が担当することになるだろうとのこと。

気仙沼市社会福祉協議会(臨時事務局、福寿荘)
菊池さん、鈴木さんと協議
ここがボランティアの受け入れ担当になるのだと思うが、経験もないし、コーディネートできるか不安だ、アドバイスしてもらうと助かる。
まだ、電話も通じないが、今後の協働を期待する。

気仙沼市街地に入り、救急車両専用のスタンドで10リッター給油、2000円。
10リッターだけの給油では不安だが、一般車が全く給油できないことを考えるとありがたいことと思う。

南三陸町志津川へ、山道を縫って進む。
山間を抜けて谷あいに入ったとたん、津波に打ち寄せたられた家屋の廃材が目に入ってきた。海はまだはるか遠く、地図を見なければ、この先に海があることさえ想像できないような山間部、こんなところまで津波が及ぶとは、誰も予想できることではなかったと断言できる。
さらに進むと、テレビで見慣れてしまった南三陸町役場庁舎が見えてきた。全てが押し流された荒野にぽつんと庁舎のみが建っている。近づいてみると、その3階の窓まで廃材が突き刺さって、津波の高さが知れる。
その先、海の方向に目を移すと胸がつぶれるような光景が広がっていた。
気仙沼でも、陸前高田でも全てをさらわれた光景は眼にしてきたのだが、ここの場合は横幅が狭く奥行きが長いせいか、その悲惨さが一点集中に胸に刺さるように感じられた。
前面に開けた海から背後の谷あいまで、高さ10メートルを越す津波が一気に押し寄せてきたことを想像してみる。その幅の中にいた人々はどのような恐怖で次の瞬間を迎えたのだろうか。
想像を絶する光景にしばらく言葉を発することもできなかった。
この度の震災は、地震の揺れによる被害はそれほど大きくなかったように思う、大津波が来なかったら激甚災害にもならなかったかも知れない。
これまでの阪神などの震災と明らかに光景が違うのは、津波のあるなしのただ一点によるものだ。
ひとつの戦争でもこれほど破壊しつくすことはないのではないか、水という武器はどれほど大きな威力を持っているのか、思い知らされる災害となった。
無言まま高建寺さんへ戻り、宗務庁の関係者とSVAのスタッフを待つことにする。

17日
昨晩遅く、24:30曹洞宗神野部長と息子さん、SVA市川、白鳥、ユースプログラム岩崎と合流。
朝、今後の動きについて協議。
10:30 高建寺出発。
東北管区教化センター高橋統監、一関市塩釜老師に挨拶、情報交換。
高橋さんから、地区の酪農家からの牛乳60リッターをいただく。
気仙沼へ。市街地でガソリン10リッターをつめる。
神野部長と別れ、市社協へ。
牛乳と物資を東陵高校へ。婦人方が夕食の準備をしていたので物資を渡す。昨日はなかった仮設トイレが設置されていた。
鹿折中学校へ。避難者600名。
グランドで焚き火で暖を取っていた人に聞くと、炊き出しは来ているとのこと。
気仙沼市への物資搬送は一括して青果市場へ集結するとの情報で青果市場へ、さらに市対策本部へ、物資搬送についての打ち合わせ。
少林寺さんへ。
ボランティアの宿泊場所として協力をお願いしたところ、快く引き受けていただいた。
市社協との協議で、ボランティア受け入れ態勢サポートをSVAが担うことで合意。
桃生町香積寺さんで神野さんと合流し拝宿。

18日
岩手が支援手薄という情報で、調査に入ることに。
大東町岩手曹青会長新沼さんを訪ね、情報交換。
遠野柳玄寺さんで情報収集。
大槌町へ。避難所栗林小学校に立ち寄り情報収集。
栗林小、300名
代表千葉敬さん、毛布等物資は着ている、下着類は欲しい。
近所の人たちが炊き出しをしてくれているが、これまで1週間おにぎり1個ずつのみ。温かいものは、カップラーメンが一回のみ。それでもありがたいと、千葉代表はあくまでも謙虚。支援の偏りが明らかに。このような避難所は他にもたくさんあると思われ、細かな調査が不可欠。
大槌町、吉里吉里地区へ。
吉祥寺さん。100から150名が避難。
この地区は、線路を境に下地区が壊滅。避難した人が吉祥寺さんと上地区の民家に身を寄せている。合計すると1200名。
水は沢水で十分足りる。プロパンガスも昨日補填された。衣類も今日配給があった。
足りないのは下着類、食材もこれまで上地区の人たちが調達してくれて間に合ってきたがそろそろ枯渇状態。
留守の家を狙う盗難の被害が出始めた。地区の人々は日中捜索などで疲れてしまうので夜警をしたくてもできない。
1週間も風呂に入っていないので体が不衛生になっている。バスで風呂の送迎などをしてくれたらありがたい。
吉祥寺住職が避難所の対策本部長となって被災者支援のとりまとめをしていた。
住職の話「こんな遠くまで来てくれただけで心強いです。本当に本当にうれしいです」
地区住民と一体となって孤軍奮闘で頑張っている住職に心から敬意を感じた。お寺がお寺の機能を全力で果たしている姿に大きな希望を見出したような思いだ。
釜石の石応寺さんに伺うつもりだったが、途中の道が通行止めになっていたため今回は断念した。
高建寺さんから荷物をピックアップして気仙沼少林寺さんへ。神野さん、SVAと合流し今日の情報交換、明日の予定の調整。22:30分就寝。

宮城県に比べて岩手県への支援が遅れていることを肌で感じた。ガソリン不足のために、移動が難しく、関東方面からの支援物資が近いところから配られているという理由もあると思う。我々もそれが分かっていながら、今回は宮古、久慈方面への調査に向かうことができなかった。北へ行けば行くほど支援の手薄があると思われ、非常に気にかかる。