なあむ

やどかり和尚の考えたこと

大震災18 恐縮のかぎり

2011年04月02日 21時00分20秒 | 東日本大震災

「お金が欲しい」などと無遠慮に書いたものですから、皆さんの心を煩わせてしましました。

神戸の修行仲間から多額の送金がありました。「恩返しです」と言っておられましたが、SVAにはもっと多額なご寄付をいただいたばかりで、恐縮するばかりです。阪神の震災の際、お子さんお二人を亡くされた方です。

痛みを感じた人でないと、なかなか人の痛みは分からないものですね。

山形県は、本当に災害の少ない土地です。多少雪は降りますが、新潟ほどでもありません。

だからでしょうか、隣の県の大災害にも反応が鈍いと感じます。また、受け入れの態度も冷たいと感じます。

自分たちの境遇が幸せだと思うなら、その幸せの一部を分けるようなつもりで支援できないものでしょうか。幸せは、分けて減るようなものではなく、かえって分け合えば増えるものなのですが、そのことも、痛みを経験しないと気づかないものなのでしょう。残念ですが仕方ありません。いや、痛みを経験した者だけが知る特権だとすればそれでいいのかも知れません。

ありがとうございます。もう充分です。

気仙沼市の遠藤さんの情報が入りました。

今は特に必要なものはないとのこと。遠慮しているのか本心なのか分かりません。東北人は我慢強いですから。

ただ、腹が立つのは、と遠藤さん。

チャラチャラきれいな服を着た女性が見物よろしく見回っているのは気に障る。視察って、上から恵んでくれるつもりか、被災地は見せ物じゃない!

ゴミを捨てていくのがいる。がれきが多量のゴミのように積まれてはいるが、そこはゴミ捨て場じゃない!

あなたの友人が、親戚がそこに住んでいたらと考えたら、自ずと態度は決まってくると思うのですが。


大震災17 むさぼらざるなり

2011年04月02日 13時55分27秒 | 東日本大震災

「正法眼蔵」の中で道元禅師は「「布施というは不貪なり。不貪というは、むさぼらざるなり」と教えています。

このような非常事態には人格というか、人間性が現れると感じます。

普段はうすぼんやりしか見えない素顔が、ああやっぱりか、というようなはっきりした顔として見えてきます。逆に、普段とは違ったきらりとした目をして、飄々として活動する人もいます。

「まさかの友が真の友」だったりします。

衣類の支援、と言われると、押し入れの掃除をするような感じで、ゴミみたいな物を送ってくる人もいれば、今着ている物を一枚脱いで送ってくれるような人もいます。

商品がないとなれば、手当たり次第買い占める人もいます。ガソリンスタンドに、2時間も3時間も並んで、入れようとしてもいっぱいで10リッターも入らない人もいたとスタンドで聞きました。そんなに暇がある人が本当にガソリン要るの?と聞きたくなります。

「布施」とは、施し、分け合いのことですが、必ずしも物やお金を差し出すことだけが布施ではない、「むさぼらない」ことも布施なのだ、というのが道元禅師の教えなのです。

ですから、施しても布施にならないこともありますし、避難所の被災者だって、物をいただきながら布施ができるということです。

人間は、自分の持っているものを「何に使うのか」によって決まります。

縁あって生まれてきた、自分の物でもないこの命、この体を、何に使うのかによって価値が変わってきます。

「命の所有権はないが、命の使用権はある」台湾の仏教慈済基金会、證厳法師の言葉です。

健康は大事、しかし、その健康な体をたった一人、自分の楽しみだけに使うなら、たった一人だけの喜びしか味わうことができないでしょう。

「分け合う悲しみは半分の悲しみ、分け合う喜びは2倍の喜び」という言葉通り、ひとの喜びを共有するとき、その分だけ喜びは増えるものです。

震災の悲しみに涙する、再会の抱擁に感動して涙する、それが人間の能力であり、他の動物とは違う、人間の人間たる所以でしょう。あなたは何度涙を流しましたか。どれほどひとの幸せを願いましたか。

その心を忘れない。人間であることを失わない。

生き残ったものたちが争っては、死者に対する裏切り、冒涜ともなりましょう。

善意は続かない、善意はしぼみやすい。善意だけでは足りない。

むさぼらず、幸せを、不幸さえも分け合って「生きて」いかなければなりません。人間として。