なあむ

やどかり和尚の考えたこと

大震災24 花見

2011年04月15日 11時04分41秒 | 東日本大震災

来週の22日、気仙沼市清涼院さまで花見をすることになりました。

小川ロンさんが来てライブを行います。

清涼院さんには、きれいな桜の大木があり、毎年花見が行われていました。

今年は例年とは違った意味で大きな花見になると思います。

清涼院さんには、現在も20名ほどの被災者が避難をし、300名ほどが炊き出しを受けています。SVAも今日からここに拠点を移すことになりました。

それぞれが、閉じこめていた思いを語り合うのか、一瞬だけ現実を忘れようとするのか、それは分かりません。

でも、心の解放の装置として、祭は必要だと思います。

アルコールの力を借りて、ほんの一瞬の命を爛漫に咲かせる桜の下で、人間の力の小ささや、人のつながりの大きさを共感できる時間を持ちたいと思います。

ロンさんにお願いしたら快く引き受けてくださり、元気を届けてくれることになりました。

河北町の和田酒造さんからお酒のご協力もいただけることになりました。

桜が散っても現実は変わりません。夢はあくまでも夢でしかあり得ません。しかし、一瞬一日を、謳歌したり、忘れたりしながらでなければ、この重すぎる現実は乗り越えられないと思うのです。


大震災23 震災から1ヶ月

2011年04月12日 09時11分42秒 | 東日本大震災

昨日は震災からちょうど1ヶ月。新庄市で追悼法要が営まれました。主催・会場は葬祭のヌマザワさん。遺体搬送で全面協力いただいた業者です。

新庄市を中心に最上郡内の宗派を超えた寺院僧侶約20人と、一般の参列者約200名が発災の2時46分に合わせて、黙祷を捧げ、読経いたしました。

現地報告として、私も少し話をさせていただきました。

遺体搬送をしていただいたヌマザワのドライバーさんに感謝を申し上げると、「こちらの方こそお礼を言いたいです、ありがとうございました。こういう活動に参加できたことを感謝しています」とのこと。

みんな何か役に立ちたいと思っているんですよね。何か自分にできることがあればとみんな考えていると思います。

それが、具体的に目に見えるような形でできればいいのでしょうが、なかなかそういう活動が見つかりません。

でも一つだけ言えるとすれば、忘れない、ということだと思います。

何度も繰り返しますが、善意はしぼみやすい、善意は続かない。善意だけでは足りないのです。

映像も見慣れてしまえば次第に衝撃も弱くなってきます。

生活が普通に戻ってくれば、いつまでも被災地を考えていられなくなってきます。

何かできないかと純粋に考えていた思いも、自分のことの方が大事になってきます。

でも、そこにはまだ、悲しみに耐え、困難を我慢しながら生きている人たちがいます。

「かわいそう」だから支援するのではなく、「困っている」から支援する。

「かわいそう」は慣れてくるけれど、「困っている」ならば、困らなくなるまで支援は続けなければなりません。

それともう一つは、デマやウワサを流さないこと。

「避難者がこんなことをした、こんなことを言った」というウワサを、興味半分に言い回る人がいます。あなたはそれを直接聞いたのですか。見たのですか。

たとえそういう言動があったとしても、善い人も悪い人もいるのが社会です。被災者が全員善人で、常に頭を下げて感謝し続けなければ許されないということはないでしょう。

一人の言ったことが全体のこととして言いふらされるのは、差別の構造です。

そんなウワサやデマを聞いても、あなたは言いふらさない。嫌なことを言うもんだなと聞き流す。できたら、「そういうのやめた方がいいよ」と言っていただきたいと思います。


大震災22 進んでいます

2011年04月09日 19時41分06秒 | 東日本大震災

昨日8日、日帰りで気仙沼に行ってきました。

避難所からアパートに移り住むことになった家内の友人宅へ、布団などとりあえずの身の回りの品を届けてきました。

市街地は、車や瓦礫の片付けが進んで、泥かきが今一番の復旧作業のようでした。商店も開店準備を急ピッチで進めていて、チラホラ開き始めた店もありました。

一つの店が開き始めれば、それに勇気づけられて次々と元気が広がっていくと思われます。その力強さと不屈の精神に敬意を表したい気持ちでした。日本人はすごい!えらい!

遺体搬送は今日が初日でした。

新庄市と鮭川村の若い和尚さんが昨日の夜から大槌町まで迎えに行ってくれて、今日新庄火葬場で3体の火葬を済ませ、赤倉温泉に1泊していただいています。ご遺骨は、今晩一晩松林寺でお預かりしました。

葬祭のヌマザワさんが全面協力を申し出てくれて、トラックでの搬送を担当してくれました。

今回のご遺体は、74歳のおばあちゃんと28歳のお若い母さん、それに4歳の娘さんのご家族3人で、ご遺族8名が同行されました。小学4年生と3年生のおねえちゃんも一緒です。

温泉で、長い道中と震災後1ヶ月の疲れを少しでも癒していただければと思います。

「まけない!タオル」も進んでいます。今日やなせななさんから、ご親戚のタオル業者さんの生地見本と見積りが送られてきました。これならとりあえず1万本何とかなりそうです。

完成が楽しみです。


大震災21 社会の修行道場

2011年04月07日 18時52分06秒 | 東日本大震災

明日8日、日帰りで気仙沼に入ります。

永平寺を下りてきて27日から気仙沼に入っていた息子が5日に一時帰宅していましたが、また気仙沼に戻ります。

彼は、気仙沼市社協の中にできているボランティアセンターの焚き出し担当に入っています。

外からやってくる焚き出し希望のグループと、被災地のニーズをマッチングする係で、炊き出しの数とメニューを聞き、その数に合う避難所、集落を調整するという役割です。

決まってから急に来れなくなったり、メニューが豚汁だったりすると、調整するのに苦労すると言っていました。

また、炊き出しの数が500だったり1000だったりだと、どうしても大きな避難所に行ってしまうので、かえって小さな100未満の避難所、集落には行き渡らず、そういう炊き出しだといいんだけど、と、やはり、その場にいないと分からない様子が知られました。

支援物資をトラックに積んで、避難所周りをして好きなものを選んでもらう、移動スーパーなども担当のようで、それなりに責任を与えられて動いているようです。

市の職員とのやりとり、被災者とのつながり、自衛隊とも交渉があったり、いろいろな、人生の先輩方との接点をもって、勉強になっていると思われます。

明日はもう一人、舟形町の若い和尚さんも一緒に行くことになりました。社会修行の道場です。

被災者に寄り添って、慈悲心を養ってもらいたいと願います。


大震災20 反応いただきました

2011年04月06日 20時35分39秒 | 東日本大震災

4月4・5日岩手県大槌町から石巻まで行ってきました。

その前後に葬儀が4件も入って、日々ギリギリの日課を過ごしています。眠いです。

「お金が欲しい」の品のない呼びかけに、「それに打たれた」みたいな反応もあって、ご支援をいただいています。これまでお金のことはあまり言いたくありませんでした。口にするのは好きでありませんでした。法事のお布施の額を言ったこともありません。

でも今回は、どうしたことか訴えてしまいました。それに応えてくれる方がこんなにいるとは思いませんでした。後日まとめて感謝の報告をしたいと思います。

さて、遺体搬送ですが、大槌町の分は9日に搬送ということで確認してきました。

更に、石巻の方へも声を掛けてきました、今後の反応をみたいと思います。

もう一つ、「まけないタオル」プロジェクトですが、こちらも反応がありました。タオル業者と募金活動の動きが進んでいます。

文字はやはり、首にも頭にも巻けないというメッセージを大切にして、「まけない!」にしようと思います。岩手・宮城の方言を活かして「まげねど!」がいいんじゃないかという提案もありましたが、被災地だけじゃなく、差別や、不運や不幸、いじめや不条理、自分自身にも、負けそうになる気持ちにも「まけない」という普遍性を持たせたいと思うので、これでいこうかと思います。

やなせななさんが、お知り合いのタオル業者にあたってくれることになりました。見本を見て試作、その後大量制作という手はずになると思います。とりあえずは1万枚作ってみようかと思いますが、できれば10万枚ぐらい作って多くの被災者に配りたいと思います。

試作品ができましたら、皆さんに広報をお願いしたいと思います。


大震災19 まけないタオル 

2011年04月03日 20時46分47秒 | 東日本大震災

「まけないタオル」を作ってくれる人はいないでしょうか。

いつも思いつきです。でもこの思いつきいいと思うのですが。

それはどういうタオルかというと、普通のタオルより少し短めのタオルです。

普通のタオルの長さが80㎝ぐらいですから、このタオルは50㎝ぐらい。

この長さでは、首にも頭にも巻けません。

だから「まけないタオル」。

デザインは、青い空に白い雲が浮かぶように「まけないぞ!」の文字。小さく象のイラストを入れたらというのは家内の意見。

タオル業界で50万枚ぐらい支援してくれないでしょうか。被災地の全ての人に配りたい。誰か関係者がいたら繋いでください。

こういうのって特許になるのでしょうか。もしそんなことになれば、大きな支援にもなるのに、と皮算用までしてしまいます。

詩を書きました。

「鎮まりたまえ」

天よ静まりたまえ

地よ鎮まりたまえ

 私が悪うございました

 私が悪うございました

 ぜいたくをし過ぎました

 命を無駄にしてきました

天が怒るのもその通りです

地が憤るのもごもっともです

 私が悪うございました

 私が悪うございました

どうかお静まりください

どうかお鎮まりください

 奢りを慎みます

 謙虚に暮らします

 自然を拝します

 命を敬います

どうかあなたの下に生かさせてください

どうかあなたの上に住まわせてください

 あなたの中から追い出さないでください

 あなたの中に眠らせてください

あなたの中に帰ります

あなたは私の 母です

    義道


大震災18 恐縮のかぎり

2011年04月02日 21時00分20秒 | 東日本大震災

「お金が欲しい」などと無遠慮に書いたものですから、皆さんの心を煩わせてしましました。

神戸の修行仲間から多額の送金がありました。「恩返しです」と言っておられましたが、SVAにはもっと多額なご寄付をいただいたばかりで、恐縮するばかりです。阪神の震災の際、お子さんお二人を亡くされた方です。

痛みを感じた人でないと、なかなか人の痛みは分からないものですね。

山形県は、本当に災害の少ない土地です。多少雪は降りますが、新潟ほどでもありません。

だからでしょうか、隣の県の大災害にも反応が鈍いと感じます。また、受け入れの態度も冷たいと感じます。

自分たちの境遇が幸せだと思うなら、その幸せの一部を分けるようなつもりで支援できないものでしょうか。幸せは、分けて減るようなものではなく、かえって分け合えば増えるものなのですが、そのことも、痛みを経験しないと気づかないものなのでしょう。残念ですが仕方ありません。いや、痛みを経験した者だけが知る特権だとすればそれでいいのかも知れません。

ありがとうございます。もう充分です。

気仙沼市の遠藤さんの情報が入りました。

今は特に必要なものはないとのこと。遠慮しているのか本心なのか分かりません。東北人は我慢強いですから。

ただ、腹が立つのは、と遠藤さん。

チャラチャラきれいな服を着た女性が見物よろしく見回っているのは気に障る。視察って、上から恵んでくれるつもりか、被災地は見せ物じゃない!

ゴミを捨てていくのがいる。がれきが多量のゴミのように積まれてはいるが、そこはゴミ捨て場じゃない!

あなたの友人が、親戚がそこに住んでいたらと考えたら、自ずと態度は決まってくると思うのですが。


大震災17 むさぼらざるなり

2011年04月02日 13時55分27秒 | 東日本大震災

「正法眼蔵」の中で道元禅師は「「布施というは不貪なり。不貪というは、むさぼらざるなり」と教えています。

このような非常事態には人格というか、人間性が現れると感じます。

普段はうすぼんやりしか見えない素顔が、ああやっぱりか、というようなはっきりした顔として見えてきます。逆に、普段とは違ったきらりとした目をして、飄々として活動する人もいます。

「まさかの友が真の友」だったりします。

衣類の支援、と言われると、押し入れの掃除をするような感じで、ゴミみたいな物を送ってくる人もいれば、今着ている物を一枚脱いで送ってくれるような人もいます。

商品がないとなれば、手当たり次第買い占める人もいます。ガソリンスタンドに、2時間も3時間も並んで、入れようとしてもいっぱいで10リッターも入らない人もいたとスタンドで聞きました。そんなに暇がある人が本当にガソリン要るの?と聞きたくなります。

「布施」とは、施し、分け合いのことですが、必ずしも物やお金を差し出すことだけが布施ではない、「むさぼらない」ことも布施なのだ、というのが道元禅師の教えなのです。

ですから、施しても布施にならないこともありますし、避難所の被災者だって、物をいただきながら布施ができるということです。

人間は、自分の持っているものを「何に使うのか」によって決まります。

縁あって生まれてきた、自分の物でもないこの命、この体を、何に使うのかによって価値が変わってきます。

「命の所有権はないが、命の使用権はある」台湾の仏教慈済基金会、證厳法師の言葉です。

健康は大事、しかし、その健康な体をたった一人、自分の楽しみだけに使うなら、たった一人だけの喜びしか味わうことができないでしょう。

「分け合う悲しみは半分の悲しみ、分け合う喜びは2倍の喜び」という言葉通り、ひとの喜びを共有するとき、その分だけ喜びは増えるものです。

震災の悲しみに涙する、再会の抱擁に感動して涙する、それが人間の能力であり、他の動物とは違う、人間の人間たる所以でしょう。あなたは何度涙を流しましたか。どれほどひとの幸せを願いましたか。

その心を忘れない。人間であることを失わない。

生き残ったものたちが争っては、死者に対する裏切り、冒涜ともなりましょう。

善意は続かない、善意はしぼみやすい。善意だけでは足りない。

むさぼらず、幸せを、不幸さえも分け合って「生きて」いかなければなりません。人間として。