Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

サボってしまった雪掻き

2013年01月15日 22時29分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日の雪、白隠展に出かける前はひどい降りだったので雪掻きをしても意味はないのでしなかった。そして帰宅が遅かったので雪掻きは結局しなかった。
 そして本日は朝から雪掻き日和だったものの、ブログの記事を作成していることを理由付けにして雪掻きはしなかった。すると13時頃から団地の私の階段のある方がスコップを持って雪掻きを始めた。内心私もしなくてはいけないのに申し訳ないな、と思いつつパソコンと格闘を続けた。
 そして15時過ぎにひと段落がおわり、今度は組合の会館に行かなくては行けないので、そのまま雪掻きをせずに会館に出かけた。夕方帰宅してみると私の家の階段の前はきれいに雪掻きが済んでいた。きっと昼過ぎから頑張っていた方が全部やってくれたみたいだ。

 自称雪掻きのプロの私としては大変心苦しかったが、今回の雪については雪掻きをしないまま雪が融けてしまったことになる。いやはや申し訳なかったと思っている。
 私の団地も他の団地と同様高齢化が進み、団地内の雪掻きもままならなくなってきている。雪掻きに出てくることが出来る若い方は仕事に忙殺され、それどころではない。雪掻きが地域の共同の仕事、手のあるものはしなくてはならないもの、という了解がますます希薄になっている上に、この高齢化である。豪雪地帯の雪掻き同様、都市部も雪掻きの人出が足りないのだ。

 最近は団地の近くの1キロメートル以上ある商店街も高齢化とシャッター化が進んで、どの店でも雪掻きが満足に出来ていない。一方通行の車道を挟んで両側に歩道があるのだが、雪掻きをしている店は本の少し。それも自分の店の前の雪掻きが精一杯の様子。都会の商店街、どこも同じような状況なのかもしれない。
 商店にとっては自分の店の前の雪掻きは、客に来てもらったりする上でどうしてもしなくてはならないばかりか、商店街全体の面子もあり、私の小さい頃は、皆競うように店の前をきれいにしたものである。
 最近は、その地域と関係の薄い雇われオーナーのチェーン店が店先の雪掻きをしない例が増えて、どこの商店街も困っているという話をよく聞く。

 昨晩、渋谷駅からBunkamuraに行く道と、道玄坂を歩いたがほとんど雪かきはしていなかった。わずかに某家電量販店だけが店員が出て歩道の雪かきを実施していた。若者の街といわれているが、客は大切にされていない町に感じた。

 たかが雪掻き、されど雪掻き、雪掻きに日本の社会の縮図が透けて見える。


白隠展

2013年01月15日 14時16分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 昨晩、関東地方は大雪・暴風雪警報が出ている中、渋谷に「白隠展-禅画に込めたメッセージ-」を見に出かけた。見に行くだけなら別の日にした方がいいのだが、「白隠禅画を読み解く」という講演会が19時半から行われたため無理をして参加した。内心では中止になることを願っていたが、主催者もなかなか「強情」である。

 さて白隠の禅画は当然禅という私たちにはとても難解なメッセージを込めて描かれているのでなかなかなじみがない。白隠の描く絵もそこに添えられた「賛」をまず読み、当時の風俗からその意味を解き明かさなくてはならない。
 しかしそんなことをしていたらわれわれのような「禅」の世界からも遠く、当時の風俗も理解できていないものには永遠に理解できないもので終わってしまう。私も解説書を読んでみたがよく理解できないでいる。

 しかしこの白隠の描く絵、なかなか迫力がある。ぐいっと目の中に飛び込んできて心を揺さぶるものがある。いわゆる巧みな絵ではない。絵の修練をした感じなどもとよりない。賛の字もとても上手の字とはいえない。しかも私などには読めない。それでもどうしても読んでみたくなる文章であったり、絵とつかず離れずの意味合いのある賛であることがわかる字体のような気がする。

 そんなわけで今回は当日の展覧会で私が心惹かれた絵をあげてみよう。



 まず会場に入ってすぐに掲げられている絵である。図録に「ぬうっ、とあらわれた、異様なほど頭でっかちの達磨。絵を見るこちらに何か言いたそううだが、目が合いそうで合わない。なぜなら、左右の瞳の位置が著しくずれているから。しかしそれがかえって、異様な迫力をもたらしている。」
 確かに頭でっかちで、額から私の方に突っ込んできて何か挑んでくるような図々しさがある。ただ瞳の位置のズレは私にはわからなかった。私の方を鋭く見て迫ってくるように感じたのだが‥。ちょっとからかわれているようでもあり、「どうだこの片方の履の意味がわかるか?」と謎解きを迫られているようでもあり、しかし決して嫌味のない瞳だと感じた。
 達磨に託した自画像だと思っている。かなり自由闊達な雰囲気があり、最晩年の作というのは頷ける。



 この作品、白隠の作品ではもっとも有名な作とのこと。縦2メートルのこの絵を見上げると確かに圧倒される。賛には「直指人心、見性成仏」という達磨絵に定番の賛のようだ。解説では「まっすぐに自分の心を見つめて、仏になろうとするのではなく、すでに仏であることに気づきなさい」ということらしい。やはり最晩年の作とのこと。
 これも達磨に託した自画像だと思う。これも瞳が上を向いていてちょっと見は髭を蓄えた人の良さそうな西洋人の風貌にも見える。
 でもこの瞳、まっすぐに自分を見据えて来た人の意志の強さ、人生の深みを感ずる。賛の解釈と少し矛盾するような感じがする。あるいは自虐的な反語なのだろうか。



 これは面白い構図と大胆な線が気に入った。横向きの達磨の半身像とのこと。やはり自画像だろう。衣はだった二本のたっぷりと墨を含んだ線で表現されている。賛は「どふ見ても」と書いてあるとのこと。「どう見ても」と上目遣いで空を見ているのか、斜に構えて心はそっぽを向いているのか。「自分は不同意だよ」、「お前なんか信じられないよ」といっているのかなと思ったが、解説をみるとそうではないらしい。
「どう見ても、達磨だろ」「どう見ても、いいだろ」と続くかもしれない、と記載されている。そうかな‥とおもいつつ、「そんなことに関わらずに見てくれればいいよ」とでもいわれたような気がする。



 この達磨の絵、42歳の若書きらしい。30歳代後半からの絵が残り、83歳でなくなるまで描いたそうで、40歳代前半は若書きのうちだそうだ。「衣の線はおずおずと臆病に引かれ、眉、髭、体毛を表すために、極めて神経質な細線を重ねる。なんとも卑屈な視線は、どこを見ているのか。賛のか細い書体も、晩年のふのたっぷりした書体とは、まったく異質だ。一昔前なら、偽作と退けられいてもおかしくない。‥迷える若き白隠の真作」と解説にある。
 「賛は『焼芋の残りを糊にして、紙の破れを繕うだけ』と自虐的な文言が記される。この達磨、実は自分の絵をちっともいいと思っていないころの卑屈な自画像」とも解説がある。
 さて、このやぶにらみの、人生に対して斜に構える、どこかいじけたような表情、私はとても気に入った。むろん自画像として解釈しての思いだが、42歳で大悟して自分が何物で、何をしたいのか、ようやくわかりかけてきた人間が、これから人々を救済する道に踏み入れようとする瞬間の、逡巡や迷いや恐れを大胆に表現したのではないか、とても親しみのある表現に私には見えた。そういった意味では確かに、「若書き」であるが、それは同時にもっとも白隠と言う人の思いが詰まった一瞬を捉えているように感ずる。好感の持てる表情ではないだろうか。私はとても好きな表情だ。



 解説では「新出の巨幅。布袋が煙管を手にし、深く吸い込んだ紫煙を吹き出している。その煙は隣の軸に移って16歳のお福になっている。煙草を吸う布袋はあり得ない。つまり、この布袋は愛煙家である白隠の化身」。賛意味は「善導大師が念仏を唱えると、阿弥陀様になったそうだが、この布袋は煙草の煙からお多福美人を吹きだす。阿弥陀様を吹き出すのは念仏の功徳だが、さてこのお福さんを吹き出せるのはいかなる功徳によるのか」ということらしい。
 この福福しい布袋が、「何ものにもとらわれず、縛られず、執着することなく、ありのままの自然の姿を受け入れ、あるがままに自由に生きる。無念無想、無心の悟りの境地を求め」禅の境地とどのようにつながるのかは私などには到底理解できないのだが、市井の人々の生き様・あり様の中に身を置いてものを考えようとする白隠の思想は感ずることは出来る。しかしどちらかというと禅画というよりは、戯画に近い戯れの絵であろうが、味がある。宗教家がこんな肯定的に生活を享受している、どうもあまりに現代的な様相である。ここら辺は、白隠の思想を追いかける楽しみがあるのかもしれない。



 鍾軌は、中国では悪鬼を払ってくれると言うので魔よけのために描かれるらしい。白隠も鍾軌を好んで描いたらしいが、魔よけの護符として、修行における煩悩を払う意味を込めたとのこと。他人にこれを与えて煩悩を払う護符とさせたということは、この強い眼差しを持つ鍾軌は、修行の手助けをしている白隠でもある。やはり白隠の自画像と理解できる。
 白隠の描く人物は面白い。顔の造作や髭などは細い割と薄い墨を使うものが多いが、衣や刀などは太い線で実に単純化して描く。それでいてとても力強い。顔の輪郭線と衣の輪郭線の対照の妙というか、線の太さに関わらずバランスが取れた質感がとてもユニークだ。
 賛は「謡曲『鍾軌』の一節」とのことなので、今晩この謡曲を読んでみようと思う。
 この目が実にいい。これでは煩悩なども引っ込んでしまいそうな気がするから不思議である。

 他にも幾つも面白い、興味を引いた作品があったが、とりあえずこの辺で切り上げることにした。またいづれ機会があれば取り上げてみたい。

 ただ展示について一言。このような企画は始めてのようなことであったので、これは貴重な企画をしていただいたと思う。だが、展示や解説について改善の余地があるように感じた。それは白隠の絵は賛がとても重要な役割を果たしており、解読できていないもの、あるいは解読できでも意味が不明なもの、時代背景や当時の風俗が理解できていないと理解不能なものなどがあるとのこと。これも十分に理解できる現状である。だからこそなのだが、解説や図録にはこの「賛」をキチンと今の字体で表記してほしかった。その上でその賛の解釈を並べ、さらに時代や絵との関係を記載してほしかった。今回の展示ではその賛について記載がないものや意訳ばかりが書いてあるものなど統一性もない。ここら辺は統一性をもって、そして忠実な賛の復元を解説していただきたかった。
 これは高校生むけの解説書を作るようで面倒な作業かもしれないが、見学者の理解、ひいては白隠が大きく話題となるためにどうしても必要なことではないだろうか。