Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

寒中見舞い

2013年01月19日 22時55分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年は喪中ということで、世間一般の慣例に従い欠礼のハガキを12月に出した。といってもごく限られた人にだけ出した。
 私の思いは、「こちらから年賀状を出すのは控えますが、それはあくまで私の事情によるもの。皆様方には私の事情にこだわることなく、皆様の新年の寿ぎは例のごとくに行いください」ということであって、皆様からの年賀状まで断る意味ではないのではないかと考えている。
 だから年賀状をいただくことにはまったく抵抗感はない。現に幾枚かは賀状をいただいた。心のこもった年賀状はうれしいものである。そして近況を簡単にでもしたためていただくことほどうれしいことはない。ということで、寒中見舞いという形式で、いつも年賀状をやりとりしている方には、喪中であるということ以外のことを記した近況報告を出そうかと考えた。
 明日にでもその準備をしようと思う。少々出すのが遅くなってしまったが、まだおかしくはないと思う。

人前でのスピーチ

2013年01月19日 17時36分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一昨日、出身の労働組合の支部の新年会兼退職予定者感謝のつどいに参加した。退職予定者へ退職者会加入の勧誘のため。11名もの退職予定者に私の簡単な挨拶状と、退職者会の会報、加入届けと会費の振込み用紙を同封した。久しぶりに40名ほどの参加者を前にあいさつをした。人前で話すのは基本的に得意ではないが、どういうわけか学生時代から40数年間、人前で話すことを続けてきた。

 本当は、私はとても恥ずかしがり屋である。人と1対1、あるいは2~3人での会話というのがとても苦手だ。ほぼいつも聞き役にまわってしまう。本当に気心のしれた相手なら別だが、普段あまり会話をしない相手、共通の話題が見つけにくい場合、体験が共有できていない相手、特に初対面などの場合、言葉を選んでいるうちに消え入るそうな声になってしまう。しかし、10数人を相手になると腹をくくって、不思議に挨拶やスピーチや、そして共通の話題のない相手でもそれを探りながら話をすることは、割と平然とやってしまう。

 学生時代のアジテーション的なしゃべりは一方的な自己満足の世界に近かったから、これはほとんど経験の蓄積にはならなかったと思う。しかし労働組合の話では、駅頭での市民向け宣伝行動から、朝の出勤時のビラ配り、各種大会での発言・あいさつ、そして10人から40人規模での職場での話し合い、そして使用者側を相手にした挨拶までいろいろな場面を経験してきた。これらは一方向のあいさつではない。必ず次の対話を前提としたコミュニケーションの一環としてのしゃべりだから、話をすることが自分の考え方の豊富化につながり、勉強になる。たとえ駅頭での宣伝行動でもそれが終了した後の組合員との対話・反省会の材料を自分なりに用意をしながらしゃべる必要がある。
 しかしいづれもうまく言いたいことが伝えられたと満足したことはない。いつもしゃべり終わってから、ああいえばよかった、こういうしゃべりはまずかった、といまでも反省ばかりをしている。紙にメモを書いていても、はやり言い残したこと、言い回しの失敗などがある。
 一昨日も話の順序がまちがった。新年のあいさつが後回しで、退職者会への加入のお願いを最初にするという基本的な間違いをした。しまったと思ってもそれを顔に出さずに図々しくしゃべることが、「慣れている」証なのだそうだ。不特定多数を相手ではなく、よく見知った顔ばかりだからしゃべりやすかったのが、うれしい。
 人の眼を見て話すのがいい、と一般的に云われている。私は30人相手でも100人相手でも、どんな場合も会場をバランスよく3つのブロックに分け、そのブロックから1人ずつ、あわせて3人ほどに注目し、順繰りにその人の顔を見ながら話すことが多い。そうすると全体に視線をめぐらせながら、自分の話がうまく伝わっているのか、この場はこのような話し方でいいのか、などを考えながら話すことが出来る。
 そして仲のいい3人と話をしていると思うことで、大勢と話をしているという緊張・圧迫感から逃れることも出来る。多分これは学校の先生では通用しない話し方なのかな、とおもう。学校の先生は生徒一人一人の反応を見ながら話さざるを得ないだろうから、こんな風に勝手に幾人かを抽出してしまってはまずいはずだ。
 この程度のテクニックが身について、あとは図々しさと度胸で話をするだけだ。だから人前で話をする基本的な技術、そして話術を身につけたわけではないので、いつまでたっても素人然とした話方しができていないと思う。でも限られた相手であったり、芸としての喋りではないので、これで押し通してきた。大勢を前にしたしゃべりも次の組合員とのコミュニケーションのための前提とするとしゃべりやすくなるし、話の幅を広げることができる。
 さらに云えば、自分の考えや組織としての考え方をしゃべって相手に伝えながら、必ずこのしゃべり方でよかったか、この考えの欠点は何か、本当にこの考えが伝わったか、などを考えながらしゃべることも覚えた。完全にとは云わないが、しゃべっているときはしゃべっている内容よりも、このようなことを思っているほうがエネルギー消費の度合いは高い。
 多分あがってしまってうまく伝えられないというのは、しゃべる内容ばかりにエネルギーを費やしてしまっているのではないだろうか。客観的に自分の置かれている状況が把握できていない場合や、自分の考えを伝えることにのみ集中してしまっている場合、周囲が見えなくなってしまう。それがあがってしまっているということになるのではないだろうか。

 ただしこの程度のスキルを手にしていても、はじめに触れたように、2~3人あるいは1対1の対話はまったく自身がない。よく言われるように「相手の目をみて話す」なんていうことがまったく出来ない。そんなこと恥ずかしくてとてもできない。相手の目を見て1対1の会話、恥ずかしくて恥ずかしくて穴があったら逃げ込んでしまいたいのだ。私は数人で話すときはいつもうつむいてぼそぼそと話をしてしまう。おどおどしてまう。
 大勢の前で話すということと、ごく基本的な1対1のコミュニケーション力とは、場の構成の仕方も基本的なノウハウもまったく違うと思う。まったく違ったスキル、そしてとてつもない気力が必要だといつも感じる。
 私のごく近しい人はこの落差に気がついて、「二重人格のようだ」ともいう。私もそう思う。初対面の人や、ごく限られた経験の範囲を超えてしまう相手にはとてもぶっきらぼうになってしまう。相手に失礼になった場面は数知れずだと思う。初対面の人ととてもなれなれしく会話をする人と会うと、逃げたしたくなる。だんまりになってしまう。退職して地域の方や、同じ講座を受講している方たちとは話をしなくてはいけない場面が結構あるが、なかなか打ち解けられない。これはどうしたら解消できるのであろうか。

 久しぶりに人前で話をしたら、こんなことを考えていた。


 さい、一昨日の会場では、奇遇としかいいようがないのだが、隣の宴会が隣の都市の同じような支部の退職者会の会合であった。実に何年がぶりにあいさつを交わした。毎年数回各都市持ち回りで組合の交流のための場を持っていて、私などは支部の方針づくりや職場実態の交流を通して大変勉強させてもらった方たちだ。とても恩義のある先輩たちに合うことができ、かつてのお礼をあらためてした。いろいろな懐かしい会に参加しているとこういう奇遇のような場面に出くわすことで、また新たな集まりに誘われることもある。不思議なものである。