本日は午後から神奈川県立歴史博物館で開催中の「勝坂(かっさか)縄文展」へ。入場料300円。
単に遺物としての縄文土器を羅列・展示するだけではなく、その美に着目した展示ということに大いにひかれた。ここ、神奈川県立歴史博物館の展示はいつも素っ気ない陳列に終始するようで、私などは展示を見ても消化不良のような気分に襲われることが多い。
昔から博物館などでの展示は親切心などから程遠い。大体は展示物の名称と出土地点や現在の保管地点、そして大まかな時代、その程度が表示されているだけだ。その遺物や展示物を取り巻く時代背景や価値の特徴など素人の知りたいことについてはとても冷たい。わからない奴は勉強して来い、わからない奴には見せても意味はない、見たいな姿勢が伝わってくる。
今回、縄文土器を我々の視点に立ってどのように解釈したり鑑賞するかという意図が一応わかるような展示の工夫がされている。展示物の名称もいかめしい名称のラベルではなく「へびのような突起が付けられた土器」などのラベルが添えられている。あるいは土器の文様の解説などもそれなりに丁寧に添えられている。
土器の用途については確定的な用途をつっけんどんに表示するのではなく、どのような用途なのか不明との表記、あるいは推定の用い方の展示などの工夫もあった。文様の乱れに着目した解説も、それが当を得ているか否かは別として、提起としてとても刺激的であった。用途は太鼓ではないか、との解釈の上に実際に敲いて音が出るように皮を張り、敲けるようにした工夫もあった。
上の写真は私がもっとも美しいと感じた「取っ手のついたコップのような形」。解説にあるとおり整った形と丁寧な造作と何に使われたかわからないが、不思議に「機能的」という言葉が出てくる美しさがあった。内側の仕上げのなめらかさも実に丁寧だ。使い込まれた美しさも感じた。
土偶はいづれも彫が深い顔、あるいはメリハリのある輪郭が美しい。この土偶を見ているだけでも今回の展示は満足の行くものだった。土偶自体の用途はわからないが、私はやはり制御できない自然に対する「畏敬」に基づく原初的な「祈り」を感じ取った。また土器の口縁部にある人の表情からは邪を払うような表情と作者・使用者の意図を感じ取った。切れ長の目は邪気に対する強い意志を見る思いがした。
同時に火焔式土器や同時期のやはり複雑な文様が貼り付けられた土器も展示され、縄文土器の魅力ある典型的な形態も堪能できた。
また実際に土器を作成してみたビデオや写真の展示も目新しい。
さらに岡本太郎が縄文土器に着目した視点を紹介し、実際に岡本太郎が映した縄文土器の写真などの展示はとてもいい展示であった。
岡本太郎の縄文土器の写真は照明にも凝り、その美的な要素を当時としては凝った照明や撮影技術で強調している。起伏が大きく、彫りの深い文様や人物像などをモノクロのコントラストの強い画面で現像している。
岡本太郎の文章の引用では、「爛熟したこの文化の中期の美観のすさまじさは、息がつまるようです。芸術の本質は超自然的なはげしさだと言って、いやったらしさを主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。」「縄文土器がどんなにすばらしいとしても、過去のものです。われわれが今日の現実に直面して、それ以上にはげしくたくましく生き、その表情を芸術のうえに打ち出すのでなければ、なんの意味もない」などが紹介されていた。またかいせつで、「岡本太郎は芸術写真としての縄文写真を求めたわけではなく、『自分の中に縄文を取り込んでやる』くらいの気概で、縄文土器と対峙している」などの解説はこれまでにない解説だ。
今回の展示、図録は販売はしていない。その代わり無料で40ページのカタログが入口で配布となっている。これはとてもありがたかったのだが、どういうわけか展示されていた火焔式土器などの写真がまったく掲載されていない。これはどうしても納得できない縄文の魅力を広く伝えたい展示である以上はこれは省いてはいけない写真ではないだろうか。掲載できない諸事情があるならば、せめてその旨を掲載してほしかった。
新しい展示の方向を模索しているらしい、その努力については評価は出来る。引き続きこのような人を惹きつける展示を期待したいものである。