Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

久しぶりにブラームスのバイオリンソナタ

2015年01月24日 20時49分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 随分と寒かった一日、なかなか日が射してこなかった。夜になってさらに寒くなってきたようだ。
 先ほどから以前に紹介したブラームスのバイオリンソナタを聞いている。バイオリンは徳永二男、ピアノは伊藤恵のコンビ。柔らかいバイオリンの音が心地良い。気分がちょっと苛立ったかなというときに気分を落ち着かせてくれる。気分のいら立ちは特に直接的な原因がない場合の方が長引くことがある。直接の原因がわかっているときは元に戻りやすい。
 したがってブラームスでも聞いて気分を落ち着かせるときというのは、その原因が思い当たらない時が多い。鎮静剤のようなものかもしれない。
 同時にこのような絵を眺めていたらより効果的である。

「香月泰男 雪の朝(1974)」絶筆の作品。


「横浜美術館コレクション展 2014年度 第2期」

2015年01月24日 07時39分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
今回の展示については次のように解説されている。

一つは、「抽象画―戦後から現代」。横浜美術館は、2014年4月現在、約1万点以上の美術品や資料を収蔵しています。その中から、日本の戦後から現代に至る抽象画を辿ります。山口長男、斎藤義重、元永定正、白髪一雄、嶋田しづ、佐野ぬいから、辰野登恵子、中村一美など1950年代生まれの画家達まで、多彩な作品で戦後日本美術における抽象画の一端をご覧いただきます。
もう一つは、「光と影―都市との対話」。同時期開催のホイッスラー展に因み、光と影をとりあげました。特に都市景観や都市生活において、光や影を敏感に捉えた作品や見る者に光の在り方を意識させる作品をコレクションの中からご紹介します。
近代以降の都市には、太陽光や月光などの自然光やそれまでの灯籠や提灯に代わって、ガス灯から電燈へと、新たな人工的光源が登場し、従来にない夜の街の賑わいを生み出し、また人々は利便性の高い交通機関や街の恩恵に浴しています。都市は、震災や戦火によってまたたくまに解体し、また新たな再生を繰り返し発展しました。光と影を併せ持ち、風貌を変える都市のエネルギーと哀感は、美術家たちを触発し、多くの作品の題材となってきました。幕末に西洋画を学んで画面に明るい光を採り入れた高橋由一《愛宕山より品川沖を望む》、文明開化が生み出した都市景観を光と影によって効果的に捉えた小林清親の版画や、清水登之《ヨコハマ・ナイト》から奈良美智《春少女》まで、多彩な表現をお楽しみいただきます。
また、写真展示室においては、現代の都市における光と影を強烈に映し出した写真家たち、金村修、磯田智子、米田知子ほか、を展示いたします。あわせてご覧ください。

今回は2つの展示室をまわった。「抽象画-戦後から現代」そして「光と影―都市との対話」の部屋。



「山口長男 B(組形)」(1957)
抽象画としては今の時点ではちょっと古風に見えたが、赤い丸の位置が何とも言えず忘れられない。構図的には赤い丸はきっちりとおさまっているようでいて、どこか最後まで浮遊感を捨てきれないもどかしさがある。そんな不安感が漂ってくる。



「菅井汲 地獄の門」(1961)
これはロダンの地獄の門を思い出した。入ろうとしているのか、出ようとしているのか、方向性は描かれていない。白い道のような細い線の先には多分絶望が覗いてるのかもしれない。戦争の記憶を色濃く反映していると思ったが、考え過ぎだろうか。



「糸井俊満 赤」(1962)
17歳で敗戦を迎えた画家ということに考えると、この赤い噴出は、戦争の記憶というよりも、戦後の社会の不安と不信を暗喩しているではないだろうか。時代へ苛立ちが間欠的に吹き上がっている。赤が生命力の旺盛な発現には思えないのは、下向きの黄色のベクトルのためだと思った。



本永定正 作品」(1963)
本永定正の作品は不思議な形体をしている。キノコが胞子を内包して今にも吐き出しそうな一瞬なのかもしれない。明るい色が欠落しているにもかかわらず、旺盛な生命力を感じた。



「佐藤敬 神話の森」(1973)
佐藤敬の緑色の作品は安定感のある構図と色調がまず目をひいた。同時に縄文の時代から人間を包み込んできた自然との対話を追及しているような姿勢を感じた。馴れと対峙、いくつかの歴史の側面のひとつがこの緑に凝縮しているような錯覚を感じた。
日本の自然と云えどもこんなにやさしく描いてしまっていいのだろうか、という疑問と肯定とが同時に私には湧いてきた。



「中村和美 連差‐破房Ⅶ」(1995)
実に大きな作品である。大きいだけの作品ならばいくらでもあるが、描かれた年から類推してこの作品は阪神淡路大震災が何らかの反映をしてるのかと思った。
 関西で生じた大きな破壊が列島全体にもたらした破壊への不安は、災害だけでなく社会全体へ大きなインパクトを与えた。そんな巨大な不安をこの作品から感じた。



「辰野登恵子 UNTITLED96-3(1996)」
が印象に残った。特に辰野登恵子と佐藤敬、本永定正の3点に惹かれた。
 辰野登恵子の作品は赤の部分の重量感と二つに割れた緊張感、赤い部分が右上にあることで発生する不安定感、緑と青の色彩の対比、赤にまとわりつく霞のような緑。とても計算されつくされた色と質感の対比に興味を持った。

 これらの抽象画の部屋から、次の部屋の明治以来の都市風景が描かれた部屋に一気に変化する。高橋由一の絵や、小林清親の版画世界であるが、今回、私の頭はそこの世界はちょっと遠慮したかった。また小林清親がちょっと私には馴染めなかった。日本の作家の戦後の具象画の部屋で2点気になった作品があった。



「遠藤彰子 街(street)」(1963)
 遠藤彰子の作品は1963年という時点を考慮すると街自体はかなり未来的なものでもあるが、描かれている人間や建物のあり様は戦前のものを引きづっているようでもあり、過去と現在と未来が不思議な捩れをもって混在している。空気もどこか淀んで澄んでいない。不思議な作品であるが、同時に私にはちょっと違和感があった。



「中上清 Untitled」(2005)
 中上清の作品は湧き上がる雲の間から顔を出す太陽であろうが、そういうような断定だけではおさまらないようにも思えた。光の中心から真っ直ぐに直線が天に向かって伸びている。これは何の暗喩であろうか。具象のようでもあり、抽象のようでもあり、私なりの想像の飛躍を楽しめる作品である。