Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

荘司福「原生」「春律」

2015年01月23日 21時48分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は久しぶりに晴れの穏やかな日となった。さっそくお昼前に最寄り駅近くやみなとみらい地区まで歩いて出かけた。汗が出ない程度の軽いウォーキングで往復。
 みなとみらい地区では「横浜美術館コレクション展 2014年度 第2期」の2度目の観覧。気に入った作品の写真を撮影してきた。
若干の感想と作品の掲載は明日に‥。

 さて、横浜美術館のミュージアムショップで荘司福のポストカード2種を見つけた。2枚で100円という値段。
 荘司福は仙台ゆかりの日本画家として宮城県美術館で展示されているものを見て以来気になっていた。

      

 神奈川県立近代美術館葉山で2009年に「生誕100年 荘司福展 花、大地、山-自然を見つめて」展の解説がネットで検索したら出てきた。

生誕100年を記念して、日本画家 荘司福(1910-2002)の回顧展を開催いたします。
荘司福は、1910(明治43)年に父の仕事の関係で赴任していた長野県松本で生まれました。青春時代に東京の女子美術学校で日本画を専攻しましたが、卒業後、若き数学者荘司篤と結婚し、東北の仙台に新居を構えました。しかし、夫は結核にかかり、若くして命を失います。二人の乳飲み子を抱えながら、荘司福が生きる目標としたのが日本画の創作活動でした。
画家として仙台でスタートさせた前半生と、その後に過ごした東京、横浜での後半生を通じて荘司福の創作活動は、戦後の日本画の歩みをそのまま体現したといえます。戦後の洋画を貪欲に吸収していった1950年代の作品から始まって、荘司福は、徐々に東北の生活や信仰に共感を寄せていきました。1960年代から1970年代にかけては、海外への取材にも意欲的に取り組み、インドやネパール、さらにエジプトやケニアといったアフリカにまで足を延ばします。仏教遺跡やオリエントの神々に接することで、古代への思いを創作に生かそうとしていきました。そして、若き日に東北の土俗的な神々を題材にした素朴な美意識に彩られた作品から、1980年代に入ってくると、静謐で玄妙な画風を経て、日本画の世界に独特の深遠な境地を生み出すようになっていきました。1980年に70 歳を迎えた荘司福は、さらに亡くなる92 歳までの晩年の20年間を、自然との対話に努め、苔むした石が連なった《刻》(1985)や清々しい早春をとらえた《到春賦》(1987)といった傑作を生み、さらに自然と交感し、ついには自然と融和した精神状態で《明け行く》(1999)や《春の海》(1999)などの絵画を描く境地に至ったのでした。
今回の展覧会は、荘司福の没後初めての大規模な回顧展で、代表作約90点を通して、荘司福の雄大で厳粛な世界を展観します。戦後の日本画の質の高い到達点の一つを示す荘司福の芸術をご堪能下さい。」

 ここに掲載されている「北辺春」(1997)は宮城県美術館で見た記憶が蘇ってきた。
 また昨年3月東京都美術館で開催された「世紀の日本画展」でも「風化の柵」(1974、宮城県美術館蔵)も記憶に残っている。
 宮城県美術館、神奈川県立近代美術館、横浜美術館で作品が見られるようである。

   

 今回購入したポストカードは「原生」(1984)と「春律」(1986)の2枚。「春律」の冬芽の微かな赤と、左右から伸びている異様に長く描いた細い枝の絡み合い、細い滝の流れがまず目に入った。そして次に凍てつく寒さの中にそそり立つ巨大な岩のボリュームに圧倒された。凝灰岩のような緑色がかった岩肌が美しい。
 荘司福の生涯を辿ってみたい。この次に神奈川県立近代美術館葉山に行ったら2009年の時の図録を購入したいものである。残部があればうれしい。

ホイッスラー展感想(その3)

2015年01月23日 09時51分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 展示作品の偏りのためか、作家自体の内発的なことなのか、私の鑑賞が限界なのか、よくわからないが、1980年代以降は油彩画等で惹かれた作品が見当たらなかった。たとえば〈小さな赤い帽子(1892-96)〉や<ライム・リジスの小さなバラ(1895)>などは人気があったようであるが、私には50歳代の新たなホイッスラーらしさを感じなかった。
 表現上の新しい試みや新たな転移を試みたようにも思えなかった。技法と表現意欲の停滞なのだろうか。ラスキンとの裁判に勝利したものの破産などを経験した後、それなりの評価を得、さらにはこれまで子は設けても法律上の婚姻関係を結ばなかったホイッスラーが結婚をする。
 どん底から生涯の安定期、そして回顧展などを開催するものの新たな表現にはたどり着かないのかな、などと無責任な感想を持っていた。

   

 しかし若くして亡くなった妻を描いた作品〈バルコニーの傍で(1896)〉には引き込まれた。
 前者は早い線描で大まかな感じがするが、末期癌の妻の最後の時間を捉えたことになっている。喪失感に溢れた雰囲気に何とも言えず惹かれる。
 窓の外の円形のテムズ川の遠景の霞んでいる具合がいい。描かれた背景がわかっている分、見る方に思い入れがついて回ってしまって高評価になっているのかもしれないが、それだけではないとも思える。
 同時期の〈テムズ川(1896)〉も同じく妻との最後の時間を過ごしたホテルの部屋で制作されたという。1870年代のノクターンの雰囲気がよみがえったような作品に思える。



 これらの版画作品が気になったので、版画作品だけに限って再度みてまわったりした。シリーズものとしていくつかにまとまっているが、ヴェニスで描いた「ヴェニス、12点のエッチング集(ファースト・ヴェニス・セット)」と「26点のエッチング集(セカンド・ヴェニス・セット)」が印象に残っている。いづれもが1879年から翌年にかけて描かれている。
 上の作品は「セカンド・ヴェニス・セット」から〈ノクターン:溶鉱炉〉(1879-80)である。夜に浮び上がる街中の鍛冶屋か金属を生産する小規模な溶鉱炉を描いている。明るい室内と外の闇が強いコントラストで描かれている。人間もこの風景の点景として描かれている。人間の存在が闇に溶け込んでいる。

   

 このような版画が10年後の1989年にも作成されていた。
 〈ダンス・ハウス:ノクターン(1889)と〈小さなノクターン、アムステルダム(1889)〉である。
 前者は建物を輪郭で表現するのではなく、部屋から漏れ出る灯りで表現している。
 後者は闇に浮かぶ、明かりの漏れた家を水面にも浮かび上がらせでいる。
 いづれもの版画は光を実に効果的に表現しようとしており、私はとても惹かれた。版画もホイッスラーにはなくてはならない表現方法だったのであろう。
 浮世絵に大きな影響を受けた画家であるが、このような版画は日本の江戸末期の版画にはない世界である。

 最後に気付いたこと、浮世絵の人物画については鳥居清永の作品が挙げられているが、結局はホイッスラーは鳥居清永の作品からの影響は受けなかったと私は思う。歌川広重の風景画からは実に多くのものを取り入れている。構図、近景の処理、色調、風景の中の人物の捉え方等々。広重の影響は極めて大きいと言っていいのではないだろうか。

 ホイッスラーという画家、魅力あふれる画家である。