Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

酔っぱらいの妄想

2015年01月02日 12時07分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 三が日でなければ出来ないことではあるが、朝から飲み過ぎたようだ。といっても朝9時に日本酒1合ほどを飲んだだけなのだが‥。

 昨日寒中見舞いの図案は決めたが、文言がまだ確定していない。普段使うこともないことなので、いろいろと悩んでいる。昨年内に喪中ハガキを出すことが出来なかったので、そのことに触れる文言がなかなか見つからない。うまい言い回しが思い浮かばない。

 さて本日は、昨日雪と風で行けなかった旧神奈川宿内の洲崎神社と大綱金比羅神社、そして大森にある鹿嶋神社に行く予定。干支の紅白の置物は例年大綱金比羅神社と鹿嶋神社で購入する。鹿嶋神社の方が一回り小さい。両者をくらべるのが、妻の楽しみとなっている。
 さらに横浜と大森の間で途中下車してどこかの神社ないしお寺に行きたいとのリクエストである。あまり欲張らないのがいいのではないか、と思いつつ付き従うだけ。いつものとおり私は参拝もせず、境内をカメラを持って歩き回るだけである。

 賽銭も参拝も破魔矢も干支も、妻と母親に任せっぱなしの不信心ものである。どうも人間以外に頭を下げたり、神仏に祈るという行為が私には身につかない。ただし自分以外の人が祈るという行為に異議をさしはさむつもりなどは全くない。圧倒的に人間を押さえつけようとする自然現象を前にしたときの「祈り」。あるいは共同幻想ともいうべき人為現象によって個々の人間かを押さえつけられようとする時、個人やより下位の人間集団がこれらの脅威に対して発する「祈り」は自然過程として肯定している。
 中学・高校とミッションスクールにいて到底現実過程としては理解できない物語、様式化した不自然な祈祷を前にして、私は宗教上の規範としての「祈る」ということに拒否反応を植え付けられてしまった。個々のブラザーの人間性では魅力ある人もいたが、それでも「遅れた日本人を指導してあげる」という思い上がりにまず反発した。また「ブラザーとなって日本に来ていつか一旗あげてやろう」という下衆なブラザーが少なくないことも思い知った。
 それは一宗教に対してだけではなく、制度としてのすべての宗教に対する反発になっている。

 そんな取り留めもないことを考えているうちにすっかり寝てしまっていた。