
学生時代の同級生からこんな素敵な装いのCDを頂戴した。詩は横浜在住の詩人、宗美津子さん、曲とピアノは宮城県生まれの鈴木芳子さん。いい曲集を聴かせてもらったと思う。以下感想をながながと記して見る。
私にもっとも似つかわしくないもののひとつに童謡があるかもしれない。絵本の読み聞かせは随分と子どもにしてやった。家から帰ると足を洗う時間もあらばこそ、膝の上に子どもが載って来て本を一緒に読むことをせがまれた。膝に抱いてかなりの数の絵本を読んで聞かせた。子どもはすっかり諳んじているので、私がチョイと口ごもったり間違えるとすぐに訂正させられる。それでも毎回少しずつ違った抑揚や語り口で、しかも少し大げさな抑揚で読み聞かせると喜んでくれた。私にとっても大事な癒しの時間であった。
だが、童謡を歌わせられるような場面だけは何とかして避け続けた。何しろ歌だけは勘弁である。歌が出てこない絵本を探すか、歌が出てくるものは子どもをおだてて子ども自身に歌わせるようにしていた。あるいは避けられない場合は妻に押し付けてしまった。情けない父親である。
同級生であった鈴木芳子さんからこのようなかわいらしいCDを頂戴してとても嬉しい。作曲もされ、ピアノを弾くということは知らなかった。学生時代は確か女性合唱団に属されていた。
童謡というのは大人の論理では出来ない。いい詩やいい曲が出来ても、子どもが理解出来なくてはいけない。また子どもが実際に口ずさむことが出来ないといけない。子どもの視点で、子どもの理解力に近づいていかなければいけないと思う。かといって子どもに媚びてはいけない。大人の思いだけで子どもに近づいた気分になっては自己満足であろう。そこは冷静に判断が求められるはずだ。長い間、真剣に子どもと接していないとできることではないと思える。
しかも2歳くらいから10歳くらいまでの幅がある。リズム感、言語、思考、表情等に多くの階梯がある。どの年代を想定した詩か、リズムはその年代に合っているか、さまざまな要因が考慮されるのであろう。さらに子どもによって成長に差もあろう。
詩、曲、演奏家、歌い手がうまく噛みあわないと子どもには届かない。大人向けの歌謡や、歌唱以上に神経を使うものではないだろうか。大人の独りよがりが子どもにとっては極めて迷惑であり、妨げになっているかは、現在の社会状況を見ればすぐにわかる。

そんなことを想いながら、このCDを私なりに聴いてみた。
この曲集では、オノマトペ、擬声語の処理が大きい要素だと感じた。特に最初の曲、「耳をすませば」の雨の音、これをどう音とメロディーで自然に子どもに歌いやすく表現するか、多分作曲者の苦労されるところだろうと感じた。
これがなかなかいい。ごく自然に難しい言葉がメロディーにのって心地よく響いてくる。「ツンツン」「ピッチピチ」「バッバッバラー」「フッフルー」「ギッシギシ」「ピュッビュービュルー」、私がこれに曲をつけろと言われたら卒倒してしまう。とても自然に歌われている。歌う技量に頼ると子どもは歌えない。作曲者の鈴木芳子さんの力量の高さを私なりに感じた。
CDの表題にもなっている「きたのもりのシマフクロウ」は詩のリズムが優れていると思った。畳みかけるように言葉が、シマフクロウの鳴き声に合わせて小気味よく反復するように出てくる。「ボー ボー フウー」という繰り返しが詩の言葉を紡ぎ出す潤滑油になっているので、これを曲にどう生かすか、で評価が分かれると思った。
そんなことを思いながら曲を聴いたが、これは私はとても気に入った。思わず幾度も聞き返した。鳴き声と詩の言葉がごく自然にメロディーにのっている。
この詩は大人の感性で読んでも聴いてもいい。夜の闇から聞こえるフクロウの声を私はとても懐かしくあたたかい声に聞こえる。淋しさや孤独や不安を聴きとる人もいるが、夜の静寂のの中で自分自身と繰り返す対話というのは、大切な時間である。このような時間の大切さを少し背伸びをして子どもにそれとなく知らせることのできる大人というのは魅力的ではないだろうか。
10曲は1分から3分もかからない短い曲ばかりである。結構広い年代に聴かせることのできるCDでもあると思った。そしてこの「きたのもりのシマフクロウ」は時々は聴いてみたい曲集として大事にしようと思った。
どうも私は長々と(屁)理屈を書いてしまう癖がある。そうしないと自分に納得しない悪い癖だと思っている。もっと素直に、素敵な曲だったとひとこと言えばいいのに、と自分でも思う。詩と曲と演奏された方には失礼だと思うが、お許しを願います。
失礼ついでに、鈴木芳子さんがこのようなすぐれた作曲と演奏の力量をお持ちとは気が付かず、学生時代はそれに対して敬意を払わずに申し訳なかったと反省している。