Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「きたのもりのシマフクロウ」(詩:宗美津子、曲:鈴木芳子)

2015年06月07日 20時17分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 学生時代の同級生からこんな素敵な装いのCDを頂戴した。詩は横浜在住の詩人、宗美津子さん、曲とピアノは宮城県生まれの鈴木芳子さん。いい曲集を聴かせてもらったと思う。以下感想をながながと記して見る。


 私にもっとも似つかわしくないもののひとつに童謡があるかもしれない。絵本の読み聞かせは随分と子どもにしてやった。家から帰ると足を洗う時間もあらばこそ、膝の上に子どもが載って来て本を一緒に読むことをせがまれた。膝に抱いてかなりの数の絵本を読んで聞かせた。子どもはすっかり諳んじているので、私がチョイと口ごもったり間違えるとすぐに訂正させられる。それでも毎回少しずつ違った抑揚や語り口で、しかも少し大げさな抑揚で読み聞かせると喜んでくれた。私にとっても大事な癒しの時間であった。
 だが、童謡を歌わせられるような場面だけは何とかして避け続けた。何しろ歌だけは勘弁である。歌が出てこない絵本を探すか、歌が出てくるものは子どもをおだてて子ども自身に歌わせるようにしていた。あるいは避けられない場合は妻に押し付けてしまった。情けない父親である。

 同級生であった鈴木芳子さんからこのようなかわいらしいCDを頂戴してとても嬉しい。作曲もされ、ピアノを弾くということは知らなかった。学生時代は確か女性合唱団に属されていた。

 童謡というのは大人の論理では出来ない。いい詩やいい曲が出来ても、子どもが理解出来なくてはいけない。また子どもが実際に口ずさむことが出来ないといけない。子どもの視点で、子どもの理解力に近づいていかなければいけないと思う。かといって子どもに媚びてはいけない。大人の思いだけで子どもに近づいた気分になっては自己満足であろう。そこは冷静に判断が求められるはずだ。長い間、真剣に子どもと接していないとできることではないと思える。
 しかも2歳くらいから10歳くらいまでの幅がある。リズム感、言語、思考、表情等に多くの階梯がある。どの年代を想定した詩か、リズムはその年代に合っているか、さまざまな要因が考慮されるのであろう。さらに子どもによって成長に差もあろう。
 詩、曲、演奏家、歌い手がうまく噛みあわないと子どもには届かない。大人向けの歌謡や、歌唱以上に神経を使うものではないだろうか。大人の独りよがりが子どもにとっては極めて迷惑であり、妨げになっているかは、現在の社会状況を見ればすぐにわかる。



 そんなことを想いながら、このCDを私なりに聴いてみた。
 この曲集では、オノマトペ、擬声語の処理が大きい要素だと感じた。特に最初の曲、「耳をすませば」の雨の音、これをどう音とメロディーで自然に子どもに歌いやすく表現するか、多分作曲者の苦労されるところだろうと感じた。
 これがなかなかいい。ごく自然に難しい言葉がメロディーにのって心地よく響いてくる。「ツンツン」「ピッチピチ」「バッバッバラー」「フッフルー」「ギッシギシ」「ピュッビュービュルー」、私がこれに曲をつけろと言われたら卒倒してしまう。とても自然に歌われている。歌う技量に頼ると子どもは歌えない。作曲者の鈴木芳子さんの力量の高さを私なりに感じた。
 CDの表題にもなっている「きたのもりのシマフクロウ」は詩のリズムが優れていると思った。畳みかけるように言葉が、シマフクロウの鳴き声に合わせて小気味よく反復するように出てくる。「ボー ボー フウー」という繰り返しが詩の言葉を紡ぎ出す潤滑油になっているので、これを曲にどう生かすか、で評価が分かれると思った。
 そんなことを思いながら曲を聴いたが、これは私はとても気に入った。思わず幾度も聞き返した。鳴き声と詩の言葉がごく自然にメロディーにのっている。
 この詩は大人の感性で読んでも聴いてもいい。夜の闇から聞こえるフクロウの声を私はとても懐かしくあたたかい声に聞こえる。淋しさや孤独や不安を聴きとる人もいるが、夜の静寂のの中で自分自身と繰り返す対話というのは、大切な時間である。このような時間の大切さを少し背伸びをして子どもにそれとなく知らせることのできる大人というのは魅力的ではないだろうか。

 10曲は1分から3分もかからない短い曲ばかりである。結構広い年代に聴かせることのできるCDでもあると思った。そしてこの「きたのもりのシマフクロウ」は時々は聴いてみたい曲集として大事にしようと思った。

 どうも私は長々と(屁)理屈を書いてしまう癖がある。そうしないと自分に納得しない悪い癖だと思っている。もっと素直に、素敵な曲だったとひとこと言えばいいのに、と自分でも思う。詩と曲と演奏された方には失礼だと思うが、お許しを願います。

 失礼ついでに、鈴木芳子さんがこのようなすぐれた作曲と演奏の力量をお持ちとは気が付かず、学生時代はそれに対して敬意を払わずに申し訳なかったと反省している。

「ボッティチェリ展」

2015年06月07日 17時00分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 ボッティチェリ展を見てきた。Bunkamura ザ・ミュージアムで「ボッティチェリとルネサンス-フィレンツェの富と美 Money and Beauty」という長い副題がついている。
 表題からはんだするとボッティチェリ(1445-1510)とその時代背景、フィレンツェの経済的繁栄についての展示と思われた。
 確かに解説には、
「15世紀、花の都フィレンツェでは、銀行家でもあったメディチ家の支援を受け、芸術家たちが数々の傑作を生み出しました。ルネサンス期の芸術の誕生には、地中海貿易と金融業によって財を成したフィレンツェおよびメディチ家の資金力が不可欠でした。メディチ家の寵愛を受けたボッティチェリ(1445-1510)に代表されるフィレンツェ・ルネサンスは、フィレンツェ金融業の繁栄が生み出した代表的な文化遺産といえましょう。
 本展では、ヨーロッパ全土の貿易とビジネスを支配し、ルネサンスの原動力となった銀行・金融業と、近代のメセナ活動の誕生を、ボッティチェリの名品の数々を中心に、ルネサンス期を代表する芸術家たちによる絵画・彫刻・版画や、時代背景を物語る書籍・資料など約80点によって、浮き彫りにします。」
と記されている。
 また構成は、
序章 富の源泉 フィオリーノ金貨
第1章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ-反映する金融業と商業
第2章 旅と交易 拡大する世界
第3章 富めるフィレンツェ
第4章 フィレンツェにおける愛と結婚
第5章 銀行家と芸術家
第6章 メディチ家の凋落とボッティチェリの変容
となっており、ボッティチェリを取り巻く社会的、歴史的背景が飲み込めるような展示となっている。

 私は目黒区美術館からのハシゴなので、頭の中も足もだいぶお疲れモードであったが、会場に入るとそれを忘れて見て回ることが出来た。
 一昨年イタリアに行ったときフィレンツェを訪れてウフィツィ美術館で2時間ほどを過ごした。そのときは「春」と「ヴィーナスの誕生」を見る機会を得た。その他の画家の作品も目に留まったのはギリシャ・ローマ神話に基づく作品であった。キリスト教絵画はあまり興味をひかなかった。



 今回はボッティチェリの聖母子像に焦点を当てて見るということにした。
 左上は、1.「聖母子と二人の天使」(1468-1469)。上の中は2.「ケルピムを伴う聖母子」(1470頃)、上の右は3.「聖母子と洗礼者聖ヨハネ」(部分、1477-80)、下の左が工房による4.「聖母子と6人の天使」(1500頃)、下の右が聖母子像ではないが5.「受胎告知」(1500-05)。
 1はボッティチェリが独立する直前くらいの作品らしい。2は師のフィリッポ・リッピが亡くなり独立した年の作品。3は「春」を描いた頃の作品でメディチ家からの委嘱も多く、絶頂期の絵画にあたるようだ。この時期、宗教画も人間表現が豊かになり聖人や聖母・キリストも現実的な生気あふれる表情になっているといわれる。
 しかし1492年ロレンツォ・デ・メディチの死後、神秘主義者サヴォナローラが力を得るようになるとその影響を受けるようになると、作品も精彩を欠くようになるといわれる。
 この5枚の絵からそれらの変遷がたどれるのだろうか。確かに聖母マリアの顔は精彩はなくなる。それよりも赤子のキリストの眼や動きが不自然になるように思える。また聖母子の体の大きさがアンバランスになるようだ。もともとキリストをマリアより多少大き目に描いていたのがいっそう大きくなるように見える。天使も含めて登場している者の視線がかみ合わなくなってくる。
 また最後に掲げち作品などは、受胎告知を受けるマリアよりも大天使ガブリエルの方が主役で目立っている。腕の上げ方、足の位置など躍動感がある。
 こんなことを考えた。



 この絵「受胎告知」(1481)はとても有名である。しかし私はいつもこの寝室と中にはが現実には同在出来ないのが不思議でならない。どうしてこんなにもあからさまな歪んで説明のつかない空間を許容したのかわからない。
 そのことは問わないとして、この作品も大天使ガブリエルが躍動感にあふれている。ひょっとしたら衣の下=近国隆々とした筋肉美を備えているかもしれない。これに反して聖母マリアの表情は乏しく、生気が感じられない。戸惑い、驚き、躊躇い、不安、恍惚、至福‥さまざまな感情が想定される。それらの感情が宗教的な規制で禁じられているとしても、あまりに生気のない顔ではなかろうか。制作年が1481年ということはメディチ家も繁栄の最中であり、メディチ家との関係は良好だったと思われる。とすると先ほど掲げた受胎告知のマリアの表情と類似しているこの絵について、どのような解釈がなされるのであろうか。
 私は赤子の状態の聖母子像の両者の表情・仕草については母性に対する信仰と相まって自由度が大きかったのかと思っている。かたや聖霊による懐胎というキリスト教にとっては神聖な教義に基づく受胎告知という題材では聖母の顔の表情に対する自由度はまだまだ低かったのかと想像している。
 さて、大天使ガブリエルの躍動感と同時にもうひとつ私が今回気が付いたのは、天使のうしろからマリアに向かって聖霊が動きが少し放射状に数本の線によって表されている。これまでこの線については気が付かなかった。スキャナーではうまく取り込めなかったが、この線に今回初めて気がついた。

 本当はこの展示ではもっといろいろなことを学ばなければいけなかったと思うが‥。


「新潟市美術館の名品たち」展(その3)

2015年06月07日 00時01分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 笹岡了一「帰郷」(1960)は、頭部の無い白い服の人間と赤い布を頭に被った男と思われる人間が描かれている。赤い布をかぶった男は足の曲がり具合が少しおかしい。背景は街中と思われる。最初は何を描いているのかわからなかった。画家の興味は人体像かと思ったが、赤い布が何の象徴なのか引っ掛った。眼を凝らして画面を見ていると右下の白い枠の中に描かれているのが車輪付きの大砲のように私には見えた。それが正しいとすると右側にある黒っぽい塊は座り込んだ人間と見ることも出来る。
 横を見ると同一作者による戦中(1942年)の作品がある。これは目黒区美術館の所蔵作品である。戦車と思われるものの後ろに日本の兵隊数人と日の丸が描かれている。多分従軍画家として描いた作品と思われる。これと比較した時、何となく私はこの「帰郷」という題の絵がわかったような気になった。
 赤い布の人間と黒い塊はひょっとしたら傷痍軍人と中国ないし南方からの、あるいはシベリアからの復員兵ではないか。そうすると白い服装の頭のない人間は、街を闊歩する人の象徴かと思えた。キリットした姿からは白い服の人は帰還兵でもなく傷痍軍人でもないはずだ。
 私は自分の1960年頃のことを思い浮かべた。当時小学校3年生、北海道の南端の函館に住んでいた。街中には旧日本軍の軍服を着た人もまだいた。まだ傷痍軍人の格好をした人も数多く駅前にいた。その横では新しいファッションで街中を闊歩する若い女性やサラリーマンも多く、対照的な場面が現出していた。当時はまだそのことに気も留めず、当たり前の光景として見ていた。
 高校生となってその頃のことを回想するたびに、当時の貧富の差、戦地から帰還した元兵隊の生活のむずかしさなどに思いが至るようになったことを覚えている。
 おそらく戦地から帰還した元兵士は、帰還が遅ければ遅いほど社会への適応は難しかったと思われる。また仕事が見つけるのも困難であったに違いない。国策で兵隊として生死の境をさまよった挙句に、引揚げても快く受け入れてくれる社会ではなかったと思われる。疎外感、違和感も大きかったと思われる。
 そんな時代状況を私は思い出した。この絵にはそんな不条理な状況が描かれているのではないか。白い服の人物は明るい街を明るく闊歩する人間の象徴、あるいは社会全体の象徴のように思える。赤い布を被った人物、人物らしき黒い塊はギクシャクとして折れ曲がった身体をしている。
 大砲と判断したり、黒い塊を人間と見たりという仮定の積み重ねだから、心もとないのだが、戦中の表現から大きく飛躍した画家の表現を見たような気がする。2点しか見ていないでこんな想像をしてしまって間違いがあるかもしれないが、あくまでも私の感想・思い付きとして許してもらいたい。




 布川勝三「北の海(しけ)」(1960)も惹かれた。先の笹岡了一「帰郷」と同じ1960年の作である。当時の私なりの記憶による社会状況と重ね合わせながらこの絵を見ていた。
 図録からスキャナーで取り込んでみたが、うまく取り込めない。この絵の下部の黒い塊は漁船、多分木造の漁船が並んでいる。日本海の荒れた海を前にたたずむ漁船の群れが描かれている。暗く立ち込めた空の下の荒れた海が画面をひっかいたような強い線で描かれている。そしてほんのわずかな青が海であることを主張している。この青にもまた惹かれた。
 画面の暗さは、日本海の冬の厳しさを表現するだけでなく、戦後の日本の社会そのものの暗喩のように見ていた。



 最後の「3.二つの美術館、二つのコレクション」では草間彌生の「線香花火」(1952)に惹かれた。現在の草間彌生の諸作品は私には馴染みが無いが、20代前半の作品である。若い頃のさまざまな模索の中のひとつの作品だと思われる。しかしこの作品のような感性の延長線上には今の作品はちょっと想定できない。この作品の延長戦というものはどんなものになるのか、という想像も面白いと思った。