午後からは講座があり、そのついでに本を購入&注文した。
神奈川大学の生協で購入したのは、
1.「貝が語る縄文海進」(有隣堂新書64)
2.「日本海の拡大と伊豆弧の衝突」(有隣堂新書75)
3.「日本列島の誕生」(平朝彦、岩波新書)
4.「大地動乱の時代」(石橋克彦、岩波新書)
の内、初めの2点。3と4の岩波新書2点は店頭にないので注文した。
実は昨晩遅くになってふと思い出したのは、10年ほど前に岩波書店で刊行した「地質学」全3巻(平朝彦著)を購入していた。昨年本棚を整理したときに、隅っこにちゃんと場所を確保していた。かなり高度な内容なので3巻とも精読して読み通す能力はないが、エッセンスをつまみ食いすることはできるかもしれない、と思った。
取りあえずは購入・予約した4点を読んでから、出来るかどうかは別として再度挑戦してみたいと思う。
神奈川大学の生協で購入したのは、
1.「貝が語る縄文海進」(有隣堂新書64)
2.「日本海の拡大と伊豆弧の衝突」(有隣堂新書75)
3.「日本列島の誕生」(平朝彦、岩波新書)
4.「大地動乱の時代」(石橋克彦、岩波新書)
の内、初めの2点。3と4の岩波新書2点は店頭にないので注文した。
実は昨晩遅くになってふと思い出したのは、10年ほど前に岩波書店で刊行した「地質学」全3巻(平朝彦著)を購入していた。昨年本棚を整理したときに、隅っこにちゃんと場所を確保していた。かなり高度な内容なので3巻とも精読して読み通す能力はないが、エッセンスをつまみ食いすることはできるかもしれない、と思った。
取りあえずは購入・予約した4点を読んでから、出来るかどうかは別として再度挑戦してみたいと思う。
朝からマグリット展の図録を見ながら、惹かれた作品に付箋をつけていた。ルネ・マグリットという画家、そう簡単には理解は出来ないと思っているが、確かになかなか難物である。作品には大いに惹かれるものが多数ある。
「よくわからないけれど、妙に記憶に残る」「こういう「美」もあるな」「不思議な静寂がある」「部屋に飾っても悪くない」などと頭の中では思える。
「題名は作品理解とは切り離した方がいい」と言われるが、マグリットは結構題名にはこだわっているようだ。また作品についてかなり自分で語っている。それを辿りながら、私が最初に目にした時の印象、しばらく眺めてからの印象、解説を読んでからの印象を混ぜ合わせている。
しかしうまく言葉で説明がつかない。美術作品だからこの作品が私の気持ちに沿っている、惹かれた、で十分なのだろうが、如何せん言葉にしないと落ち着かない私の性分である。言葉にできないと、立ち往生したような気分になる。悲しい習性だ。
そんなことを思っていたらいつの間にか正午をまわっていた。とりあえず図録の最後まで目を通して付箋を30枚ほどつけた。全130点のうち約4分の1。これを10点位まで絞り込みたいのだが、それにはとても時間がかかりそうだ。恥ずかしながら、そして残念ながら、私の能力を超えているようだ。好きな作品の取捨選択が出来ないのだ。
ということで本日の図録めくりを終了した。
「よくわからないけれど、妙に記憶に残る」「こういう「美」もあるな」「不思議な静寂がある」「部屋に飾っても悪くない」などと頭の中では思える。
「題名は作品理解とは切り離した方がいい」と言われるが、マグリットは結構題名にはこだわっているようだ。また作品についてかなり自分で語っている。それを辿りながら、私が最初に目にした時の印象、しばらく眺めてからの印象、解説を読んでからの印象を混ぜ合わせている。
しかしうまく言葉で説明がつかない。美術作品だからこの作品が私の気持ちに沿っている、惹かれた、で十分なのだろうが、如何せん言葉にしないと落ち着かない私の性分である。言葉にできないと、立ち往生したような気分になる。悲しい習性だ。
そんなことを思っていたらいつの間にか正午をまわっていた。とりあえず図録の最後まで目を通して付箋を30枚ほどつけた。全130点のうち約4分の1。これを10点位まで絞り込みたいのだが、それにはとても時間がかかりそうだ。恥ずかしながら、そして残念ながら、私の能力を超えているようだ。好きな作品の取捨選択が出来ないのだ。
ということで本日の図録めくりを終了した。
CDは、ビーター・レーゼルの1972年・1973年の演奏だが、解説もついていない税込1000円の廉価版である。1997年に購入したと思う。
昨年の4月19日からブラームスの室内楽曲、器楽曲、管弦楽曲を全曲聴きながらこのブログに感想を記してきた。最初に取り上げたのがブラームスの最後のピアノの独奏曲「3つのインテルメッツォ」(作品117)、「6つのピアノ曲」(作品118)、「4つのピアノ曲」(作品119)だったと思う。
そのときこんなことを記した。
「私のブラームス体験というのはちょっと変わっている。昔、20代の初めに夏目漱石の小説を読んでいた時、たまたまブラームスの交響曲2番が気に入って幾度も聞いていた時に重なる。それで何の根拠もないのだが、いつしか夏目漱石の小説世界、とくに後期の「行人」以降の小説群とブラームスの曲想が、私の頭の中でどういうわけか連動している。夏目漱石がブラームスの曲を好んだかどうかはまったくわからない。1900年のロンドン留学時に聴いたという話も無いようなのだが‥。もしも聞いていたらどんな感想を記したであろうか。」
そんなことを記してからいつの間にか全曲を取り上げたことになる。声楽曲を是非聴いてみて、と言われたことがある。いつか挑戦してみたい。
梅雨の晴れ間の心地よい日、朝からこのCDを聴いている。こんな朝にはちょっと似つかわしくないかもしれない。やはりこの3曲は夜に聴くのがふさわしい。
この録音の年が1972~73年というのも、私にとっては何か暗示的である。1971~75年の体験の内のさらに一番濃い時間である。多分今の私の生き方の核がこの時に作られている。この時の体験が無ければ今の私は無いと思う。
単に録音された時期が重なるというだけで、このCDに惹かれてしまうというのは不思議なものである。おそらくこの曲を当時直に聞いていても特に感動はしなかったと思う。仕事を離れてこの曲に惹かれるだけの心のゆとりができたのだと思う。
音楽にしろ、各種芸術体験というのはそれを体験した時の心のありようと切っても切り離せない。同時にふと閃くように受け入れるときというのもある。数十年前の心に沿うようなものでも、心に届くには時間という醸成を経ないと届かない場合もある。
今、絵画や音楽や詩などを鑑賞していていると、私の1970年代前半の体験に照らしながら鑑賞している場合がほとんどである。「当時の私の気分とひょっとしたら共鳴しているな」と思うとその作品は印象に残る。何か自分の言葉に変換して記したくなる。
昨年の4月19日からブラームスの室内楽曲、器楽曲、管弦楽曲を全曲聴きながらこのブログに感想を記してきた。最初に取り上げたのがブラームスの最後のピアノの独奏曲「3つのインテルメッツォ」(作品117)、「6つのピアノ曲」(作品118)、「4つのピアノ曲」(作品119)だったと思う。
そのときこんなことを記した。
「私のブラームス体験というのはちょっと変わっている。昔、20代の初めに夏目漱石の小説を読んでいた時、たまたまブラームスの交響曲2番が気に入って幾度も聞いていた時に重なる。それで何の根拠もないのだが、いつしか夏目漱石の小説世界、とくに後期の「行人」以降の小説群とブラームスの曲想が、私の頭の中でどういうわけか連動している。夏目漱石がブラームスの曲を好んだかどうかはまったくわからない。1900年のロンドン留学時に聴いたという話も無いようなのだが‥。もしも聞いていたらどんな感想を記したであろうか。」
そんなことを記してからいつの間にか全曲を取り上げたことになる。声楽曲を是非聴いてみて、と言われたことがある。いつか挑戦してみたい。
梅雨の晴れ間の心地よい日、朝からこのCDを聴いている。こんな朝にはちょっと似つかわしくないかもしれない。やはりこの3曲は夜に聴くのがふさわしい。
この録音の年が1972~73年というのも、私にとっては何か暗示的である。1971~75年の体験の内のさらに一番濃い時間である。多分今の私の生き方の核がこの時に作られている。この時の体験が無ければ今の私は無いと思う。
単に録音された時期が重なるというだけで、このCDに惹かれてしまうというのは不思議なものである。おそらくこの曲を当時直に聞いていても特に感動はしなかったと思う。仕事を離れてこの曲に惹かれるだけの心のゆとりができたのだと思う。
音楽にしろ、各種芸術体験というのはそれを体験した時の心のありようと切っても切り離せない。同時にふと閃くように受け入れるときというのもある。数十年前の心に沿うようなものでも、心に届くには時間という醸成を経ないと届かない場合もある。
今、絵画や音楽や詩などを鑑賞していていると、私の1970年代前半の体験に照らしながら鑑賞している場合がほとんどである。「当時の私の気分とひょっとしたら共鳴しているな」と思うとその作品は印象に残る。何か自分の言葉に変換して記したくなる。