Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

久しぶりに機関紙作成

2015年06月18日 23時36分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 夕食後から久しぶりに機関紙の原稿作りを開始した。A3の表裏分の版下用紙を一太郎で作った。一段13字で6段組の枠組は簡単に出来上がり。
 その上に、まずは来月号の記事を流し込んでいく。一面の3分の1に相当する記事ふたつ分を作ったところで大分くたびれたので本日の作業は中止。
 現役時代はA4裏表の機関紙を毎週土曜日に作成していたが、隔月でA3裏表では紙面を作る労力からすると4分の1で済むはずである。また輪転機で印刷したり、袋詰めなどの労力は必要ないので本来ならば10分の1以下の労力のはずだ。計算通りならば有難いのだが‥。

 シベリウス「バイオリン協奏曲」を聴きながらの作業はそれなりにはかどった。明日の午後もこれを聴きながら続きをやってみる。
 すでにホームページに掲載しているものを記事として活用するのでそれほどの労力は無いはずである。しかし記事の取捨選択と割り付けに時間を取られる。23日までに8割方出来上がるようにしたい。

 外では再び強い雨が降り始めた。昨日や本日の昼間ほどではないが、雨の音がやむことなく続いている。梅雨本番というところ。九州南部ほかなりの積算雨量となっているようだ。



機関紙の原稿作り

2015年06月18日 21時13分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日も午後からとてもすごい豪雨が横浜市の中心街を襲った。午前中磯子駅まで出向いて仕事をこなした後、横浜市都市発展記念館にて「時計屋さんの昭和日記-一青年のみた戦中戦後の横浜」展を見終わって外に出てみると日本大通り駅の周りは、昨日のような豪雨であった。
 駅から地上に出てきた多くの人が建物の広い出口で立ちどまっている。歩道から2mは鯛物の中にいないと飛沫で衣服が濡れてしまうような雨である。
 まさか本日もこのような雨に会うとは思わなかった。傘は昨日よりも少し大きめで頑丈な折りたたみ傘を持参した。だが足元は確実に濡れるのがわかっているので、地下の喫茶店でしばらく様子を見ることにした。30分ほどしてから喫茶店を出て地上の様子を見たが相変らず降っていたので、みなとみらい線で横浜駅までもどるとすっかり晴れあがって日が射していた。
 そのまま眼科に直行した。ところが視力検査と診察、薬局で点眼薬を処方してもらって終了したのが2時間後の16時45分。午後の講座はもうすでに終了しており、仕方なくそのまま帰宅することにした。

 午前中の仕事は、退職者会の機関紙の印刷をお願いしている印刷所とのはじめての打合せであった。結局今後のことを考えるとA3裏表分のフォーマットを作る方がいいようなので、これから本日中に作ることにした。A4の裏表は現役の頃毎週支部の機関紙を作成していたので、楽に作れるが、A3裏表となると結構のボリュームがある。隔月とはいえそれなりに負担になりそうである。とうとう明日以降来月の機関紙の原稿作りに本腰を入れなくてはならなくなってしまった。
 ということで、東京行きの予定は断念。


「時計屋さんの昭和日記」(横浜都市発展記念館)

2015年06月18日 20時15分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 横浜都市発展記念館で開催されている「時計屋さんの昭和日記-一青年のみた戦中戦後の横浜」展を見てきた。

   

 1930(S5)年という世界恐慌の起こった翌年に信州の伊那地方から横浜・根岸の時計店に奉公に出てきた12歳の下平政煕少年が1994(H6)に77歳で亡くなるまでつけていた日記をもとにした展示。下平氏の生涯と横浜、否、日本の昭和史を重ねて昭和という時代、戦前・戦中・戦後を浮かび上がらせるという企画である。
 華々しい経歴ではないが時代の大きなうねりに翻弄されながらも、誠実に生き抜いて人生を全うした市井の職人の生涯が、時代の流れと重ね合わせて展示されている。
 まずはこのような貴重な長期にわたる資料を提供された下平氏の遺族に敬意を表さなくてはいけないだろう。そして展示にまとめた学芸員の熱意と力量も優れていると思った。
 私の父親より一つ下という年齢の下平政煕氏の人生はとても私にとっては身近な世代である。私の場合は自分の親と重ねながら見るというのではなく、1951年以降については自分の人生と重ね合わせながら見た。特に1964年に中学一年になった私が根岸の不動坂下から学校に通った地域に近かったこともあり、また、横浜市に勤めて組合活動に従事する中で訪れる機会の多かったこの地域については、いろいろの思い出がある。
 同時に、大正デモクラシーから日中戦争、そして第二次世界大戦・太平洋戦争に至る時代は、私が戦前の歴史をいろいろ聞きながら時代を私なりに再構成しようとしていつも具体的なイメージがどこかで明確に作ることのできないもどかしさを持っていた時代である。そういった意味ではとてもありがたい企画展であった。
 「明治は遠くなりにけり」、ではなくもはや「戦前の時代も遠くなりにけり」なのである。戦争に駆り出された世代には、意外と戦前・戦中の体験について語らない負を背負ったという思いがある。私はそれは戦争責任に対する中途半端な清算によってもたらされたと思っている。戦後の冷戦の始まりにともなってあの戦争に至った責任追及が有耶無耶になったことが、負の歴史にさらに負の遺産を押し付けてしまった。
 そして今の政治の流れは、あの戦争を否定しようとしない風潮がまかり通るようになってしまった。
 この展示はそのような風潮に大きな一石を投じることを切に願いたいものである。

 戦前の奉公人、住み込み職人の生活実態、実家との関係、親方の家族との関係、独立した職人の仕事のあり様、満州開拓団の実態、そして戦後の生活実態、私の中学生時代の横浜の実態等々、あらためて知ったことがたくさんあった。
 私が死んでもこのような生きた市井の市民の資料を残すことができるだろうか。かなり否定的だ。

            

深夜にも大雨注意報・豪雨のお知らせ情報

2015年06月18日 09時25分13秒 | 天気と自然災害
 横浜市内にも2時前に大雨注意報が発令された。3時ごろには市から「豪雨のお知らせ情報」が届いた。予想雨量で見ると私の住んでいる区でも時間雨量30ミリの雨があるらしい。ただし私の住んでいるところよりも西の方らしい。
 今回は予報どおり弱い雨が短時間降っただけで終わったが、同じ区でも西部の方はかなり降ったことになっている。
 明け方には大雨注意報は解除になった。

 気象庁の発表のように大気はかなり不安定なようすである。予報では夕方まで曇で夜から昨日ほどではないが雨が降るようだ。しかしこの分ではいつどっと降るかわからない。困ったことに、本日は一日で歩かなければならない。

 セキセイインコはどうやら危機は脱したようだ。病院に連れていく一週間ほど前から食時も摂らなくなり、じっとしていた。診断をしてもらうと46グラム超と体重が異常に増加し、皮下脂肪、肝脂肪が目立ち、消化器官が拡大していた。処方してもらった薬をスポイトで口に流し込んだが、飲んだのかどうかもはっきりしなかった。5日ほど食事も摂らずにじっとしていたが、擂餌を与えると少しずつ自分から食べ始めるようになった。さらに3日ほどして普通の餌も青菜も食べ始めた。
 再度医者に連れていくと体重は38グラムと標準に戻っているとのこと。人間でいえば二週間で70キロの体重の人が57キロに減量したことになる。見た目にもスマートになり、以前よりも活発になった。
 このまま回復してくれるといいのだが‥。