本日読了したのは「西洋美術史入門〈実践編〉」(池上英洋、ちくまブリマー新書)。
先日読了した〈入門編〉の続き。〈入門編〉とはかなり落差があり、読みごたえ充分。ただし絵画の技術的側面についてはごく素人の私には少々難しい点もあった。しかしそれ以上に私なりに勉強になったり、これまでの頭の整理が出来たこともある。
「ゴッホの作品群において、1888年から1889年にかけて、「立体性の排除」と「奥行きの喪失」がみられる。ゴッホにおけるジャポニスムとは、東洋的空間性の受容であり、画面の均質化による平面性の獲得として表出したということが出来る。同一画家作品同士の比較によって、故人様式の変遷がある程度明らかになることであり、空間性の特質に着いて理解していれば、その影響を指摘できる」
さらに絵画と政治・戦争とのかかわりについての概観はとてもよく理解できる。ナポレオン、ヒトラー、スターリン、東西対立などの政治に利用され、翻弄される美術作品、プロパガンダ作品のありようについて末尾の論考は私の考えの整理にとても近かった。
「作品は誰のものか。作品はそれを観る人がいてはじめて美術品となるものなので、必然的に後世それを持つ人、眺める人たちが“創って”いく部分も非常に大きい」。
復旧なった仙石線に乗る機会を得た。仙台からあらたに運行となった仙石東北ライン特別快速で石巻駅まで乗車。列車には鉄道マニアの親子連れなどで賑わっていた。確かに塩釜駅まで15分位と早いのだが、仙石線に乗り入れるときには驚いた。(写真はWikiより)
東北線の下りの線路から上りの線路をほんのわずかだが逆行して、さらに仙石線の線路に乗り入れる。高架で東北線の上り線をまたぐのではなく平面で交差していくのである。信号もあり、いったん停止をしていくのだから危険はないはずではあるが、上り線を逆行するという運行に驚いた。そして仙石線に乗り入れる直前にも信号で一旦停止し、仙石線の上り列車を眼前で見送ってから線路に進入していく。単線に乗り入れる眼前を反対方向の列車が通り過ぎていくのを見ているのは少々怖かった。
陸前大塚駅から陸前小野駅までが確か不通区間で、大きく高台に線路を移したと聞いていた。陸前大塚駅の手前で松島湾の海岸のすぐ横を通る。しかしここは依然と同じ位置を走っている。陸前大塚駅を過ぎてすぐに大きく山側に迂回して新しい東名駅、野蒜駅を通過する。海辺の景色は無くなってしまったのはやむを得ないのだろう。そして両駅前共に広大な造成が行われている。まだまだ工事は終わらず人家も建っていない。
石巻駅に進入してまず驚いたのは、石巻市立病院の大きな建物の建設工事。隣りには石巻市役所がすでに出来上がっている。海岸・河口に近い場所から移転してきている。駅周辺は大きく様変わりとなるだろうと予想される。
駅周辺もあの津波が襲い1メートルには達しなかったけれどしばらく水がひかなかったところである。当然対策は進んでいるのであろうが、難しい選択なのであろう。
石巻駅前のメインストリートを北上川の川べりまで歩いてみた。途中自動販売機の上まで水を被った表示がいくつも目についた。古い建物が解体されずに残されていた。「観慶丸陶器店」の建物ということであった。よく見ると土台が破壊されているが、陶板による装飾が美しく贅を凝らした建物である。当時の石巻の繁栄と富の集中が偲ばれる。
歩いている途中に白謙蒲鉾店を見つけてミニ蒲鉾を手に入れ食べながら歩いたが、とても美味しかった。仙台駅のみやげ品コーナーはいつも人がいっぱいで購入するのを控えていて初めて購入できた。これは病みつきになりそうである。
石巻駅からこんどは仙石線の各駅停車に乗り、新設なった野蒜駅で下車した。まだまだ造成中で駅の出口は山側の造成地に面して出来ている。海側に降りるには造成地の外側を大きく迂回しなければならない。元野蒜小学校の敷地の脇をとおって海岸に向かう。歴史ある野蒜小学校の門柱が残っているし、校舎閉鎖されたまま残されているが、体育館は取り壊されて消防の敷地となっている。校庭は平屋の仮設のような建物の野蒜市民センターと郵便局になっている。
わずか一年で大きく様変わりしているのにビックリした。しかし人びとの生活がある以上当然といえば当然なのだろうとも思う。
体力と時間の関係から旧野蒜駅・野蒜海岸には寄ることはできなかったが、まずは旧東名駅をめざした。野蒜地区も東名地区も住宅は減り、いたるところに造成工事に携わる企業の建物が建っている。住宅は建て直しているものもあるが今でも被害を受けたままで放置されているものが多い。あまりの変わりように、このあたりの地区に見覚えのある妻も言葉が少なくなっていた。旧東名駅も残っていたプラットホームも解体撤去されてしまったようで、JRの資材置き場となっていた。
ここからさらに東名地区を抜けて陸前大塚駅まで歩いた。東名地区の住宅街を通り抜け、陸前大塚駅近くの高台から松島湾をのぞんだ。松島湾の東側の展望が美しいということで、1970年代初頭に妻が、すでに亡くなった彼女の両親と幾度か訪れたことのある地であるそうだ。海苔の養殖棚が並ぶ景色は今でも美しい。ここは津波を免れたが、新しい造成地とも離れており、1970年代の当時のままに放置され高台である。すっかり荒れて雑草が土地を覆い尽くしている。1970年代初頭に合法だったか違法だったかはわからないが開発が進められかかったようで、地先と思われるところにブロックの石積みの跡がわずかに残されている。結局開発は行われることはなかった。そして震災前も眼下にあったはずの、海に接した防波堤から内側に大きく広がっていた水田がすっかりなくなってしまった。新しく山側に迂回する高架の敷地となってしまった。震災前に私が訪れた時は、防波堤の内側は水田に稲穂がたわわに首を垂れていた。また近くのやはり水田の跡地が東名地区の高台移転のための造成地となり工事が進められている。
陸前大塚駅のすぐ傍には後藤桃水の胸像と巨大な民謡碑があり始めて訪れた。これまで名前も知らなかったが、たまたま名前だけを知る機会があった。駅から100メートルも離れていない。5年ぶりにこの駅を利用して多賀城駅へ向かった。
東北線の下りの線路から上りの線路をほんのわずかだが逆行して、さらに仙石線の線路に乗り入れる。高架で東北線の上り線をまたぐのではなく平面で交差していくのである。信号もあり、いったん停止をしていくのだから危険はないはずではあるが、上り線を逆行するという運行に驚いた。そして仙石線に乗り入れる直前にも信号で一旦停止し、仙石線の上り列車を眼前で見送ってから線路に進入していく。単線に乗り入れる眼前を反対方向の列車が通り過ぎていくのを見ているのは少々怖かった。
陸前大塚駅から陸前小野駅までが確か不通区間で、大きく高台に線路を移したと聞いていた。陸前大塚駅の手前で松島湾の海岸のすぐ横を通る。しかしここは依然と同じ位置を走っている。陸前大塚駅を過ぎてすぐに大きく山側に迂回して新しい東名駅、野蒜駅を通過する。海辺の景色は無くなってしまったのはやむを得ないのだろう。そして両駅前共に広大な造成が行われている。まだまだ工事は終わらず人家も建っていない。
石巻駅に進入してまず驚いたのは、石巻市立病院の大きな建物の建設工事。隣りには石巻市役所がすでに出来上がっている。海岸・河口に近い場所から移転してきている。駅周辺は大きく様変わりとなるだろうと予想される。
駅周辺もあの津波が襲い1メートルには達しなかったけれどしばらく水がひかなかったところである。当然対策は進んでいるのであろうが、難しい選択なのであろう。
石巻駅前のメインストリートを北上川の川べりまで歩いてみた。途中自動販売機の上まで水を被った表示がいくつも目についた。古い建物が解体されずに残されていた。「観慶丸陶器店」の建物ということであった。よく見ると土台が破壊されているが、陶板による装飾が美しく贅を凝らした建物である。当時の石巻の繁栄と富の集中が偲ばれる。
歩いている途中に白謙蒲鉾店を見つけてミニ蒲鉾を手に入れ食べながら歩いたが、とても美味しかった。仙台駅のみやげ品コーナーはいつも人がいっぱいで購入するのを控えていて初めて購入できた。これは病みつきになりそうである。
石巻駅からこんどは仙石線の各駅停車に乗り、新設なった野蒜駅で下車した。まだまだ造成中で駅の出口は山側の造成地に面して出来ている。海側に降りるには造成地の外側を大きく迂回しなければならない。元野蒜小学校の敷地の脇をとおって海岸に向かう。歴史ある野蒜小学校の門柱が残っているし、校舎閉鎖されたまま残されているが、体育館は取り壊されて消防の敷地となっている。校庭は平屋の仮設のような建物の野蒜市民センターと郵便局になっている。
わずか一年で大きく様変わりしているのにビックリした。しかし人びとの生活がある以上当然といえば当然なのだろうとも思う。
体力と時間の関係から旧野蒜駅・野蒜海岸には寄ることはできなかったが、まずは旧東名駅をめざした。野蒜地区も東名地区も住宅は減り、いたるところに造成工事に携わる企業の建物が建っている。住宅は建て直しているものもあるが今でも被害を受けたままで放置されているものが多い。あまりの変わりように、このあたりの地区に見覚えのある妻も言葉が少なくなっていた。旧東名駅も残っていたプラットホームも解体撤去されてしまったようで、JRの資材置き場となっていた。
ここからさらに東名地区を抜けて陸前大塚駅まで歩いた。東名地区の住宅街を通り抜け、陸前大塚駅近くの高台から松島湾をのぞんだ。松島湾の東側の展望が美しいということで、1970年代初頭に妻が、すでに亡くなった彼女の両親と幾度か訪れたことのある地であるそうだ。海苔の養殖棚が並ぶ景色は今でも美しい。ここは津波を免れたが、新しい造成地とも離れており、1970年代の当時のままに放置され高台である。すっかり荒れて雑草が土地を覆い尽くしている。1970年代初頭に合法だったか違法だったかはわからないが開発が進められかかったようで、地先と思われるところにブロックの石積みの跡がわずかに残されている。結局開発は行われることはなかった。そして震災前も眼下にあったはずの、海に接した防波堤から内側に大きく広がっていた水田がすっかりなくなってしまった。新しく山側に迂回する高架の敷地となってしまった。震災前に私が訪れた時は、防波堤の内側は水田に稲穂がたわわに首を垂れていた。また近くのやはり水田の跡地が東名地区の高台移転のための造成地となり工事が進められている。
陸前大塚駅のすぐ傍には後藤桃水の胸像と巨大な民謡碑があり始めて訪れた。これまで名前も知らなかったが、たまたま名前だけを知る機会があった。駅から100メートルも離れていない。5年ぶりにこの駅を利用して多賀城駅へ向かった。