Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

語り継がれるということ

2015年07月23日 23時04分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は少々飲み過ぎだったかもしれない。と反省しつつ早目に寝てしまわなくてはいけない。明日は10時から平家物語の購読の最終講義。二日酔いで講座を聴くのは恥ずかしながら学生時代以来である。就職して以降はさまざまな研修を受けさせられたが、たとえ遠隔地での研修でも二日酔いではさすがに参加することはなかった。当たり前と云えば当たり前で、自慢にはならないが‥。

 研修については組合の役員としてかかわったものに、数えられないほどのエピソードがあるが、そのようなものをいまさら披露してもあまり建設的なことにはならない。自慢話になっては意味もない。たぶん忘れてしまうのがまともなのだろう。

 人は様々なエピソードを胸の奥にしまっている。それは外に出さないままにしているのが多分普通のことなのだと思う。職場で昔こんなことを云われた。「思い出は外に漏らさないことによって、語り継がれる場合もある」のだそうだ。胸の内にしまいっぱなしでは誰もわからずに、忘却するのではないか、などというのは野暮なのかもしれない。人生の知恵として、忘れることも必要なことだということを言っているのかもしれない。
 

古澤巌「ヴァイオリンの夜」

2015年07月23日 22時19分58秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 同じ曲でも、昨日の天満敦子の演奏する世界とこんなにも印象が違うのだろうか?と最初はとても受け入れることが出来なかったCDであった。
 古澤巌の演奏会は横浜美術館のロビーで行われたのも含めて2回ほど聴くことができた。そのいづれも印象は良かった。バリバリとエネルギッシュに弾きとおす演奏スタイルはひょっとしたらサラサーテと云われるような人はこのように演奏していたのかもしれない。
 確かに聞こえてくる音は美しい。繊細の部分の細い高音も美しい。だが雨の夜にじっくりと聴くにはいささか私のイメージとはずれがあるようだ。演奏家にとってはいろいろな作曲家のさまざまな曲に挑戦してほしいのだが、聴く側にとっては好印象がどうかは分かれてしまう。当然のことではあるが。
 特に私の勝手なイメージなのかもしれないが、モンティのチャルダーシュ、グラズノフの瞑想曲にはビックリした。確かにこのような演奏もありなのかもしれないとは思うが‥。
 ヴァイオリンという楽器、こんなにも演奏する人によって表情が違うのか、ということを教えてくれたCDである。