goo blog サービス終了のお知らせ 

Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

シャルフベック展(その2)

2015年07月15日 23時18分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 シャルフベックの飛躍的な転換は、1914年にステンマンという美術商や1915年にロイターという画家との出会いと、再びフィンランド芸術協会からの自画像制作依頼から始まる。田舎での研鑽の日々から再度人々の脚光を得て、美術界との盛んな接触が再び始まる。
 ゴッホが自画像を執拗に描くことで彼の技法の確立をはかったように、シャルフベックも自画像で技法の確立を追ったのだと思える。

   

 黒い背景の自画像はそんな転換点の作品だと思える。より抽象化した人物像は三角形の構図と遠近感を配した平面性、そして色の対比による色面構成で人物を浮きだたせている。襟元のブローチも唇の赤も、頬の紅も、「女性らしさ」の要素ではなく絵画の構成上の色彩のアクセントとしての役割によって付け加えられたに過ぎないと捉えることも出来る。このような構成から生命体としての生気がほのかに立ちのぼる不思議な世界を作り上げようとしたものではないか。背後の黒と墓名碑のような名前の刻印も、漆黒を避けた描画の手法と考えることもできる。



 同時期の人物像はさらに面白い方向を試行したように見えた。顔の左右で表情がまったく違う。解説では右側が若い頃の精気があり、左には年齢とともに衰ええぐられた頬が描かれている、という。モノクロなので曖昧さがあるかもしれないが、それを承認してみると、画家は左右に「時間」という視点の違う顔を描きこもうとした試みだということになる。キュビズムが複数の視点からひとつのものを描いて画面上で再構成する試みだといわれるが、シャルフベックという画家は、その視点に時間軸というファクターを付け加えようとしたのかもしれない。
 なかなか先駆的なことを試みた画家として評価できるのではないだろうか。



 白いスィ-トピーも1915年の作である。キュビズムのような要素もあり、何よりも私は下部の青がとても印象に残った。小品であるが、このような静物画も自画像とともに描かれている。
 さて最晩年にいたり、エル・グレコやゴヤなどの古典の模写などやムンクにも影響を受け、そしてひょっとしたらヴラマンクなどの影響もあるように見えた。実に貪欲かつ旺盛な創作態度だと感心している。

   

 最晩年は自画像とごく身近な静物画が並ぶ。野菜の静物画はどれもが色彩配布の妙と野菜の存在感が独特の均衡を保っている。また重なり合いで不思議な遠近感が出来ている。かぼちゃの絵にはとても生気があり、惹かれた。また黒い塊のある林檎の静物画は、解説によれば、黒く腐っていく林檎で死の予兆を示していると記されている。死の予兆と飛躍していいのかわからないが、腐った林檎というのが正しいとすると、新鮮な林檎と腐った林檎という時間差を同時に描くという、1915年頃の自画像で試みた技法を死の直線に再度試みたということになるかもしれない。腐った林檎は形は崩れてしまう。そういった意味では形を保った黒い塊はあくまでも「腐った林檎の脾兪」でしかない。
 腐った林檎を並べて描いたのではないと思う。ひょっとしたらマグリットが卵を写生しながら羽ばたく鳥を写生する自画像を描いたような作品なのかもしれない。技法上の冒険という点からはとてもわかわかしいものを感じてしまう。



 最晩年にいくつもの自画像がある。これもその一つ。解説では緑の自画像は、バスルームのタイルの色の反映ということである。だが、私には緑色で表現したかった理由がありと思う。緑という色の暗喩は何なのか、私にはわからないが、この緑という色が自然の暗喩としての意味合いがあると思える。この自画像については、これまでの仮定を捨てて、素直に自然へ回帰する死の予兆ととらえてもいいかもしれないと思っている。

 シャルフベックという画家、あまり知られていなかったが、私にはとても印象深い画家の一人となったような気がする。


シャルフベック展(その1)

2015年07月15日 21時52分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 ヘレン・シャルフベック展(6.2~7.26)、東京芸術大学大学美術館ということになってします。シャルフベック(1862-1946)は日本ではなじみのない画家の名であるが、フィンランドを代表する近代画家ということである。
 生涯についてはチラシ等で概略が記されているが、一方的な婚約破棄を受けたり、適わなかった恋愛体験など私的に厳しい経歴を持ち、自己を見つめ続ける内省的な傾向の作品が並ぶ。
 フィンランドという国家形成期の自治政府からの奨学金によるパリ留学など、政治的な国家形成期の芸術家としての側面の作品も垣間見えるが、この画家の本質はそこには無い、と展示される作品からは断言してもよいのではないか。そんな仮定をたててみたい。

   

 政府から求められたレアリズムや歴史画なども手掛けるが、婚約破棄事件の頃の作品では、「洗濯干し」(1883)、「扉」(1884)などのように、独自の視点や構成、方向性を求めている様子がうかがわれる。そしてその方向性に私はとても惹かれるものがある。これらの絵は故郷のフィンランドの政府からの奨学金の見返りとは相容れない方向の絵と思われる。政治的なプロパガンダには背を向けた視点がこの画家の特質ではないか。これらの絵に婚約破棄にいたる不幸な恋愛の暗い予兆を読み取るという方法を捨ててみるとどうなるだろうか。この絵の視点はもともとの画家の特質だと仮定してみたい。その方がこの画家のありようを説明できないだろうか。



 「快復期」(1888)が画家の世に認められた出発点であるらしい。フィンランド芸術協会の買い上げ、パリ万博での銅賞という成功で当時のナショナリズム高揚の流れの中に身を置くことになる。さて、この絵は婚約破棄という精神的痛手からの回復を示唆するものであろうか。その後の彼女の生き方からはとてもそのような回復が図られたようには見えない。敢えてその思考に随うなら儚い夢、裏切られる夢の方がいいのかもしれない、と私は思う。
 だが、画家の精神の直接的な繁栄を見る傾向というのはどんな画家のどんな作品にも貼られるレッテルのような気がする。そこから身をひいて私はこの作品を最後に、クールベ的なレアリズムへの決別の作品だと考えてみるのも悪くない。フィンランドに戻った画家はこれ以降、さまざまな同時代の画家の手法をさまざまに試みていく。田舎に引きこもったとはいえセザンヌ、シャバンヌ、ピカソ、モディリアーニ、ホイッスラー、マリーローランサン、ラファエル前派‥実に貪欲である。「快復期」は新しい技法へ向かう画家の従来の時分への決別の作品だと思いたい。画家としてはこれまでの自己の絵画のあり方、芸術家協会との関係に一区切りをつけようとしたのではないか、と私なりに想像している。これは乏しい私の知識ではまったく当たっていないかもしれないので、あくまでも私の勝手な思いである。
 私にはしかし新しい飛躍を求めた15年間の作品はあまり惹かれるものはなかった。だが、それ以降の静物画と自画像はとても惹かれる。

蒸し暑かった

2015年07月15日 02時34分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 2万人超の人込みの中に長時間いたせいか、特に精神的なストレスを感じることはなかったがとても疲れた。体を動かしてはいないので肉体的には疲れないはずだが、デモに出るまでの1時間45分も身動きできないまま立ちっぱなしだった。
 しかも強風注意報がずっと出ていたのだが、日比谷公園の内部は人混みに遮られたほとんど風が通らない。蒸し暑さに気分の悪くなる人もかなり多くいた。さらに自分のテンポで歩くことが出来ないのもまた肉体的に疲れる要因でもあった。
 21時15分過ぎに地下鉄の永田町駅にたどり着いて、22時近くになってようやく渋谷駅にてビールにありつくことが出来た。様変わり著しい渋谷駅、安い居酒屋を探すのに苦労した。4人が入ることのできる店がなくて、5軒ほど断られた。サラリーマンには居づらいところになってしまったのだろうか。あるいはそのような場所は昔とは違うところに変わってしまったのだろうか。
 日付が変わる直前に自宅にたどり着いた。