シャルフベックの飛躍的な転換は、1914年にステンマンという美術商や1915年にロイターという画家との出会いと、再びフィンランド芸術協会からの自画像制作依頼から始まる。田舎での研鑽の日々から再度人々の脚光を得て、美術界との盛んな接触が再び始まる。
ゴッホが自画像を執拗に描くことで彼の技法の確立をはかったように、シャルフベックも自画像で技法の確立を追ったのだと思える。
黒い背景の自画像はそんな転換点の作品だと思える。より抽象化した人物像は三角形の構図と遠近感を配した平面性、そして色の対比による色面構成で人物を浮きだたせている。襟元のブローチも唇の赤も、頬の紅も、「女性らしさ」の要素ではなく絵画の構成上の色彩のアクセントとしての役割によって付け加えられたに過ぎないと捉えることも出来る。このような構成から生命体としての生気がほのかに立ちのぼる不思議な世界を作り上げようとしたものではないか。背後の黒と墓名碑のような名前の刻印も、漆黒を避けた描画の手法と考えることもできる。

同時期の人物像はさらに面白い方向を試行したように見えた。顔の左右で表情がまったく違う。解説では右側が若い頃の精気があり、左には年齢とともに衰ええぐられた頬が描かれている、という。モノクロなので曖昧さがあるかもしれないが、それを承認してみると、画家は左右に「時間」という視点の違う顔を描きこもうとした試みだということになる。キュビズムが複数の視点からひとつのものを描いて画面上で再構成する試みだといわれるが、シャルフベックという画家は、その視点に時間軸というファクターを付け加えようとしたのかもしれない。
なかなか先駆的なことを試みた画家として評価できるのではないだろうか。

白いスィ-トピーも1915年の作である。キュビズムのような要素もあり、何よりも私は下部の青がとても印象に残った。小品であるが、このような静物画も自画像とともに描かれている。
さて最晩年にいたり、エル・グレコやゴヤなどの古典の模写などやムンクにも影響を受け、そしてひょっとしたらヴラマンクなどの影響もあるように見えた。実に貪欲かつ旺盛な創作態度だと感心している。

最晩年は自画像とごく身近な静物画が並ぶ。野菜の静物画はどれもが色彩配布の妙と野菜の存在感が独特の均衡を保っている。また重なり合いで不思議な遠近感が出来ている。かぼちゃの絵にはとても生気があり、惹かれた。また黒い塊のある林檎の静物画は、解説によれば、黒く腐っていく林檎で死の予兆を示していると記されている。死の予兆と飛躍していいのかわからないが、腐った林檎というのが正しいとすると、新鮮な林檎と腐った林檎という時間差を同時に描くという、1915年頃の自画像で試みた技法を死の直線に再度試みたということになるかもしれない。腐った林檎は形は崩れてしまう。そういった意味では形を保った黒い塊はあくまでも「腐った林檎の脾兪」でしかない。
腐った林檎を並べて描いたのではないと思う。ひょっとしたらマグリットが卵を写生しながら羽ばたく鳥を写生する自画像を描いたような作品なのかもしれない。技法上の冒険という点からはとてもわかわかしいものを感じてしまう。

最晩年にいくつもの自画像がある。これもその一つ。解説では緑の自画像は、バスルームのタイルの色の反映ということである。だが、私には緑色で表現したかった理由がありと思う。緑という色の暗喩は何なのか、私にはわからないが、この緑という色が自然の暗喩としての意味合いがあると思える。この自画像については、これまでの仮定を捨てて、素直に自然へ回帰する死の予兆ととらえてもいいかもしれないと思っている。
シャルフベックという画家、あまり知られていなかったが、私にはとても印象深い画家の一人となったような気がする。
ゴッホが自画像を執拗に描くことで彼の技法の確立をはかったように、シャルフベックも自画像で技法の確立を追ったのだと思える。

黒い背景の自画像はそんな転換点の作品だと思える。より抽象化した人物像は三角形の構図と遠近感を配した平面性、そして色の対比による色面構成で人物を浮きだたせている。襟元のブローチも唇の赤も、頬の紅も、「女性らしさ」の要素ではなく絵画の構成上の色彩のアクセントとしての役割によって付け加えられたに過ぎないと捉えることも出来る。このような構成から生命体としての生気がほのかに立ちのぼる不思議な世界を作り上げようとしたものではないか。背後の黒と墓名碑のような名前の刻印も、漆黒を避けた描画の手法と考えることもできる。

同時期の人物像はさらに面白い方向を試行したように見えた。顔の左右で表情がまったく違う。解説では右側が若い頃の精気があり、左には年齢とともに衰ええぐられた頬が描かれている、という。モノクロなので曖昧さがあるかもしれないが、それを承認してみると、画家は左右に「時間」という視点の違う顔を描きこもうとした試みだということになる。キュビズムが複数の視点からひとつのものを描いて画面上で再構成する試みだといわれるが、シャルフベックという画家は、その視点に時間軸というファクターを付け加えようとしたのかもしれない。
なかなか先駆的なことを試みた画家として評価できるのではないだろうか。

白いスィ-トピーも1915年の作である。キュビズムのような要素もあり、何よりも私は下部の青がとても印象に残った。小品であるが、このような静物画も自画像とともに描かれている。
さて最晩年にいたり、エル・グレコやゴヤなどの古典の模写などやムンクにも影響を受け、そしてひょっとしたらヴラマンクなどの影響もあるように見えた。実に貪欲かつ旺盛な創作態度だと感心している。


最晩年は自画像とごく身近な静物画が並ぶ。野菜の静物画はどれもが色彩配布の妙と野菜の存在感が独特の均衡を保っている。また重なり合いで不思議な遠近感が出来ている。かぼちゃの絵にはとても生気があり、惹かれた。また黒い塊のある林檎の静物画は、解説によれば、黒く腐っていく林檎で死の予兆を示していると記されている。死の予兆と飛躍していいのかわからないが、腐った林檎というのが正しいとすると、新鮮な林檎と腐った林檎という時間差を同時に描くという、1915年頃の自画像で試みた技法を死の直線に再度試みたということになるかもしれない。腐った林檎は形は崩れてしまう。そういった意味では形を保った黒い塊はあくまでも「腐った林檎の脾兪」でしかない。
腐った林檎を並べて描いたのではないと思う。ひょっとしたらマグリットが卵を写生しながら羽ばたく鳥を写生する自画像を描いたような作品なのかもしれない。技法上の冒険という点からはとてもわかわかしいものを感じてしまう。

最晩年にいくつもの自画像がある。これもその一つ。解説では緑の自画像は、バスルームのタイルの色の反映ということである。だが、私には緑色で表現したかった理由がありと思う。緑という色の暗喩は何なのか、私にはわからないが、この緑という色が自然の暗喩としての意味合いがあると思える。この自画像については、これまでの仮定を捨てて、素直に自然へ回帰する死の予兆ととらえてもいいかもしれないと思っている。
シャルフベックという画家、あまり知られていなかったが、私にはとても印象深い画家の一人となったような気がする。