「若冲と蕪村」展の図録から今回は若冲最晩年の水墨画の作品から3つほど。若冲の水墨画のこれまでとはまるで違った独自性が窺えてとても好きである。
まずは「六歌仙図」(1793)。若冲が78歳の時の作品という。見た目にもなかなかユーモラスな作品に思えた。一番目を引く中央の黒い装束の男が団扇で串刺しのものを仰いでいる。何かとぼけた表情をしている。向かい側のかしこまった装束の男が丁寧な仕草で焼いたものを手にしている。食べようとしているのか、逆に串刺しにして団扇を持った男に渡そうとしているのか、わからない。さらに画面の下には壺を抱えた男が寝ている。どうもお酒を飲んで寝転がっているように見える。一番上の男は何をしているのかわからない。
一見してここまではわかったが、これが六歌仙とどういう関係なのか見当もつかない。しかも私が認識したのが4人しかいない。よくわからないまま会場を出た。そうはいっても何やら面白そうな絵であるという印象だけは持っていた。
先ほど図録の解説を読んだらこんな風に記載してある。
「六歌仙が田楽を焼き、酒を呑むという何とも楽しげな様子が描かれる。‥装束は丁寧に描き分けられている。右上から、大きな鉢で味噌をする喜撰胞子、豆腐を箱から取る後ろ姿の小野小町、画面中央で団扇を扇いで田楽を焼く直衣姿の大友黒主、みの右下で焼きあがった田楽を手に取る武官姿の在原業平、画面下部で大きな盃で酒を呑む僧正遍照、隣に寝転がって酒瓶を抱える文屋康秀となる」と記載されていた。なるほど私はまず小野小町と遍照に気が着かなかった。これで6人である。
史実とはかけ離れたところでユーモアな画面を構築するには、それぞれの歌の特徴や官位などの知識が必要だが現代に生き、素人の私はそこまではわからい。しかし78歳でこのような境地にいることはなかなか私には想定も出来ない。
次は、「釣瓶に鶏図」(1795)。年齢は若冲80歳の作品である。釣瓶に止まっているらしいことはわかったが、鶏がどうしてこんなに年寄りじみた眼をしているのだろうと思ってそのまま通り過ぎていた。ただし尾羽の黒々とした様に惹かれた。最下部に描かれた釣瓶の金属質の部分と軽くしなやかなはずの尾羽が、同じ一番濃い色で表現されていることに不思議な感じはもった。角ばった金属質の丸く柔らかなそうな尾羽の構図上のバランスは確かに面白い。
解説では「天秤竿の橋に鶏が片脚で立つという構図自体は緊張感があるものの、目を見開いた鶏のとぼけた表情がおかしみを誘う」とある。天秤の端に立つという緊張感、というのはいわれるまでわからなかった。また鶏の眼がとぼけているというのまでは思い至らなかった。老境の若冲の眼を象徴しているのかと思ったが、老境なって飄々とした心境があの眼なのだろうか。しかも立つ位置が緊張を強いられるという心境とはいかがな心境なのだろう。
生きる上に常に緊張感を持って日々過ごしているという気概はわかるが、それを自覚的か無自覚化はわからないが作品に反映させるという生き様というものがあるというのは、ものすごいことではないだろうか。
三つ目の作品は「托鉢図」(1795)。前作と同じ80歳の作品である。まずびっくりしたのは何人いるかわからないが全員の表情が違うということ。若い僧侶らしい表情も少し見える。しかしそれなりの年齢の人物が多いようだ。大きな寺から托鉢で出るときは集団で整列しながら市中に出るのであろうか。その様を実によく観察していると思った。
大勢の僧侶にこのように集団で托鉢をしろと指示をしたとして、全員がしかめっらをして謹厳に歩くとは、現代でもなかなか想像できない。それは多分若冲の時代でも同じだったと思う。個性のある人間の集団ならではの面白い一瞬を切り取ったのであろう。現代に通じる人間の集団のありようの把握がとても面白い。
僧侶一人一人の表情からは五百羅漢の像などを見る思いがした。
解説では、「修行僧が55人、頭巾をかぶり杖を持って袈裟を身にまとった僧侶が1人。ほぼ直立した姿の反復と個性的な表情の対比が絶妙で、若冲晩年のユーモアが感じられる」とある。
軍隊のように行進するなどという行為が如何に非人間的なことなのかあらためて思い出させてくれる作品である。