横浜美術館で開催している「メアリー・カサット展」は2回ほど見て回った。最初は浮世絵を取り入れようとしたいくつかの作品に惹かれた。そしてその次に、20世紀の「聖母子像」を描いた人だという意見に、始めはそのとおりかとも思った。しかし惹かれるものがあるとすれば、それだけではないと思い直してじっくりを見て回った。あらためて作品群を見た印象を整理してみた。彼女がカトリックかプロテスタントだったかは結局は分らなかったので、その点からも聖母子像と決めつけるのは確かに躊躇する。
1.子どもの体格が母親に比べて現実の赤子より大きく見える
2.母子とりわけ子どもの眼あるいは視線が他の画家と比べて特徴があるように見える
3.ルネサンス期に代表される聖母子像に比べて、赤子に動きがあるものが多いようだ
4.母親の手、特に手首から先が力がこもっていて逞しい
2と3の他の画家と比べてというのが、どこがどうしてということを我が家にある図録をすべて見たわけではない。しかし子どもが母親の方を見ているのはボッティチェリの「本の聖母」が思い浮かべる程度である。それも聖母の憂いを含んだ視線は子どもの眼には注がれていない。
もともと聖母子像は、神であるキリストを神格化されたマリアが抱いている図であるが、キリストは普通の子のような動きを示さない。母マリアの表情は時代が下るにしたがい、赤子をあやすような視線なり表情を見せるようになる。またキリストも次第に現実の赤子のような表情を示すこともあるが、決して「神」であることをやめることはない。
カサットの母子像は純粋の聖母子像でもなく、20世紀の聖母子像でもないが、どこかで通底していることは否定できない。特に子どもが裸あるいはそれに近い恰好であることは作者も聖母子像のことは念頭にあったと想像できる。20世紀ならではの聖母子像と思われる作品と思われる作品もないではない。「温室にいる子どもと母親」(1906)などは母親の伏した眼と青い服(マントではないが)、こちらをじっと見る裸の子どもの瞳と視線などはその要素が詰まっている。だが、この作品には他の母子像のような視線の交わりによる物語、母子のコミュニケーションがあまり感じられない。日ざしは温かみがあるが、全体は静的である。そして母親と赤子の体の大きさは一応均衡が取れている。
チラシに大きく掲載された、「眠たい子どもを沐浴させる母親」(1880)は比較的初期の作品から独特の母子像が始まるようだ。赤子に特有の足の湾曲からすると赤子にしては母親に比して体が大きすぎる。また赤子にしては母親の右手の方が赤みがかって、逞しく力強く描かれている。
母子の視線は交わってあやしている状況であることはすぐに了解できる。この時の母親の心境はどうであろうか。たぶん或る程度大きくなってむずかる子が「いとおしい」とか「可愛い」と思うのは、その場ではなく暫くたって気持ちにゆとりができた時ではないだろうか。その場では結構いらいらするものである。そんな一瞬を思い出すとこの母親の表情は下向きで見えないが結構厳しい顔をしていると私は思う。「微笑ましい」場面と解釈するのは自由ではあるが、多分正確ではない。
子どもの左足の親指はかなり力が入っている、多分子どもを抱える母親の左手も力が入っているのであろう。そんな母子の葛藤をあらわしている。淡い青い色調に騙されてはいけないと思う。このような作品はおそらく喜多川歌麿の作品「行水」などからの影響であると思われる。
顕著な例は「湯あみ(たらい)」(1990-91)がある。題材だけでなく、動的な、コミュニケーション感のある母子像という視点を取り入れ新しい母子像を作り上げたのだと思った。