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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ポンピドゥー・センター傑作選」展(東京都美術館)

2016年08月25日 22時09分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 「ポンピドゥー・センター傑作選」展は、1906年から1977年まで、一年一作品という構成である。1906年は日本史でいえば日露戦争の翌年で、日本が軍事国家としてアジアへ露骨な侵略を始める頃である。私の脳内にあるの世界史と日本史の乏しい知識をフル動員しながらの鑑賞は面白かった。
 また既存の作品の年代ごとの再認識はいい勉強になった。作品の前後関係を間違って記憶している物もあった。特に絵画作品と写真作品の時代の誤った記憶が多かった。
 展示目録ではなく、実際の作品を見ながら時代を追うというのはいい経験となった。特に1945年以前については‥。
 1945年については展示スペースはあるものの壁は黒く塗られ、天井の小さなスピーカーから、レジスタンスのシンボルとも云われたエディット・ピアフの「ラ・ヴィ・アン・ローズ(バラ色の人生)」が流れていた。いかにもフランスらしい演出なのかな、と思った。
 戦後、1960年代までの作品は日頃接する機会もあり、私自身との同時代性もあり、親近感のあるものが多かった。しかし1970年代以降の動向については私なりの作品世界と時代の特徴がうまく合致しなかったと思う。1970年以降のフランスや世界の時代相と日本の時代相、わたしなりに整理できていると思ったが、フランス芸術という視点から見た世界の時代相と、日本という狭い視野から覗いてきた世界の時代相とのギャップなのかもしれない。また私なりの時代の評価とズレがあるのかもしれないと思った。そのズレがどういうものなのか、これだけの展示とそれに対する違和感とからは何とも具体的に指摘はできない。感覚的にもうまく表現できない。

私の目に留まった作品は次のとおり

★1907年 ジョルジュ・ブラック「レック湾」


★1909年 モーリス・ヴラマンク「川岸」


★1915年 アルベール・グレーズ「戦争の歌」
この画家の名と作品は初めて目にした。むろん「戦争」とはヨーロッパでの第一次世界大戦である。


★1935年 パブロ・ピカソ「ミューズ」


★1948年 アンリ・マティス「大きな赤い室内」


★1949年 ニコラ・ド・スタール「コンポジション」
この画家と作品も私は初めて見た。前年のマティスの大作「大きな赤い室内」と並んで展示されると、この対照的な色彩がとても映えて見えた。マティスと対照的な色彩感覚にとても惹かれた。また他の作品も見たいと思った。


以下は展示目録
   

本日は東京都美術館だけでダウン

2016年08月25日 18時07分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は東京都美術館の「ポンピドゥー・センター傑作選」と森美術館の「宇宙と芸術展」を、と高らかに宣言したものの、挫折。
 午前中に眼科で診断してもらうつもりだったが、診察を待つ人で待合室は満席。しばらく時間をつぶして待っていたが、順番がまわって来そうもないので受付をキャンセルしてもらった。その足で上野駅まで直行して、アイスコーヒーで一服後に「ポンピドゥー・センター傑作選」を見て回った。
 これが思いのほか時間がかかったのが、原因であったと思う。理由はなかなか面白かったということ。1906年から1977年まで、一年一作品という構成である。私の脳内にあるの世界史の知識をフル動員しながら、自分の知っている世界の動きや日本の動きと同期しながらの鑑賞は面白い。また既存の作品の年代ごとの再認識はいい勉強になった。作品の前後関係を間違って記憶している物もあった。特に絵画作品と写真作品の時代の誤った記憶が多かった。
 展示目録ではなく、実際の作品を見ながら時代を追うというのはいい経験となった。特に1945年以前については‥。しかし戦後、とりわけ1970年代以降の動向については私なりの作品世界と時代の特徴がうまく合致しなかったと思う。1970年以降の世界の時代相と日本の時代相、わたしなりに整理できていると思ったが、フランス芸術という視点から見た世界の時代相と、日本という狭い視野から覗いてきた世界の時代相とのギャップなのかもしれない。
 そんなことを考えながら最後の1978年、ポンビドゥーセンター建設時の作品にたどり着いた時にはへとへと。
 本日の夜までに感想はとりあえずアップしてみたい。
 六本木まで行くことは断念し、同じ東京都美術館で開催している「木々との対話-再生を巡る5つの風景」展を見た。「ポンピドゥー・センター傑作選」展の半券提示で800円が500円になるとの表示に誘われた。なかなか面白い展示であったと思う。明日までにはこの感想もアップしてみたい。

 家の傍の眼科に戻ったのは17時過ぎ。受付締切前に何とか間に合って診察を受けることが出来た。この時間はずいぶんとすいていて助かった。

中桐雅夫「俸給生活者の詩」

2016年08月25日 10時06分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 俸給生活者の詩      中桐雅夫
      われわれには宿題はない
      われわれには明日がないからだ

朝、坂を下りて煙草屋の老婆に挨拶する、
夕、疲れた足をひきずって坂をのぼり、
走り抜ける自動車のガソリンを嗅ぐ。
銭湯にゆけば、クロールカルキの匂い、
細い道を家に帰れば、小鯵の煮付けと白菜のうすい匂い。
ラヂオのうえを油虫が走っていった。
永遠のくりかえし。

ビニールの黒い枠にかこまれた通勤定期(パス)、
それが僕の唯一の生存証明だが、
もしマンホールのなかへ落としても
鼠の死骸をおおう役目もできない。
電車に積み込まれた骸骨がガラガラ鳴った。
みんな僕の仲間で、
下水のなかをただ流れてゆくだけだ。

朝夕があり、ビニールの定期(パス)入れはあつたが、
日曜があり、デパートの食堂につれてゆく妻や子供もあつたが、
明日のない君や僕に、
いつたい今日はあつたのだろうか。
昼食にソバを食べた、
だから今日はあつたと思う。
何かで上役に叱られた、
だから今日は確かにあつたと思つているが。

「団体交渉」「越年資金獲得」
「組合員の身分保障」と、
ちょつと波立つた気持も、
すぐ帳簿のなかに綴じられてしまう。
それよりも厭なあいつの足をひつばつてやろう、
注射を二、三分おくらせただけで、
患者を殺したあの狡猾な医者のやり方で、だ。

合オーバーの買えぬうちに、今年も、
冬がきた。
埃くさい事務所の、こわれかけた椅子でも、
坐っている間はまあ気持ちがいい。
それから犬のように尾を振り、
老人のように眼をしばたたく、口ごもる、
泥の振子が鳴って、
「六(ろく)う時です」と帰りの時を告げるまで。


 これは「荒地詩集1953」から。「無言歌」という9編の連作詩の2番目である。この1953年、戦争が終わってから8年たってようやく中桐雅夫の詩に、生活の場面が読み込まれるようになる。その生活は悲惨である。悲惨というのは当時多くの人々がそうであったように貧しいのだか、それ以上に社会からの疎外感、社会との違和感、生きていくことへの徒労感というのが強く打ち出されている。
 これがさらに戦後の中桐雅夫の詩の根拠ともなると思う。死の匂いは表面上いったん見えなくなるが、決して消えたわけではない。