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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「パガニーニの主題による変奏曲 作品35」

2016年08月13日 23時28分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 1862年から1863年にかけて作曲された。ブラームスが29歳から30歳にかけての曲である。
 パガニーニの有名な「カプリッチョ第24番 イ短調」を主題にした変奏曲で、もともと芸術的練習曲として構想されたこともあり、情緒の深みと至難な超絶技巧の要求される曲。
 第1巻、第2巻に分かれる。それぞれ主題と14の変奏曲からなる。

 それぞれを主題と14の変奏曲からなるひとつの曲として聴いている。それぞれ終曲に近図くに従って、私には聴きやすくなる。



ブラームス「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24」

2016年08月13日 22時09分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ブラームス「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24」は、1861年28歳のブラームスが書いた作品で出版されたもののうち、唯一のフーガ作品を伴う大曲。ウィキペディアによると「バッハの『ゴルトベルク変奏曲』、ベートーヴェンの『ディアベリ変奏曲』、ロベルト・シューマンの『交響的練習曲』と並び称される、音楽史上の変奏曲の歴史を飾る曲」という説明がされている。
 同時に作品35の「パガニーニの主題による変奏曲」とともにブラームスのピアノ独奏用の曲の双璧を為すともいわれている。



 主題の骨格から形成される簡素なテーマに基づくフーガからなる。主題はヘンデルのクラヴィーア組曲第2巻(HWV434)の第1曲「エア」によるからとられており、主題と25の変奏からなる。
 25の変奏曲は実にさまざまな表情を見せてくれる。
 そして第25変奏曲の後からはじまるフーガもいい。無限に続く無窮動のように8分音符が星をちりばめるように自己運動していくようだ。

 晩年のブラームスの沈んだ雰囲気が好みでないという人にとっては、この時期のロマン溢れる曲想が好みであるという人も多い。学生時代の私もそうであった。とても懐かしく聴いている。

メアリー・カサット展(横浜美術館) その4

2016年08月13日 10時53分54秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 その3で「果実をもぎとろうとする子ども」(1893)について記載した。コロコロ様からコメントをいただいた。やはりこの作品の母親の「目が怖い」という印象を持たれたとのことである。私だけの感想かと思っていたが、同じように感じられる方がいて少しホッとした。
 母親はリンゴの実を取って与えてはいない。子どもをしっかりときつく抱きながら、子どもが自分で手に取ろうとするようにし向けている。
 自立した子どもになるようにしつけようとする母親の強い意志があの目に込められているように私には思われる。多分彼女が画家を志してからの厳しい社会の女性に対する環境に打ち勝ってきた決意も込められているのであろう。



 さらに「眠たい子どもを沐浴させる母親」(1880)また母子の関係は決して甘いだけのものではなく、現実の母親の子どもと接するときの心の葛藤を描いていると感じた。この絵では母親の顔は明確には描かれていないが、それでもきつそうな顔の表情であると見ることもできる。いうことを聞かないぐずる子どもを相手に、放り出したくなったり、怒鳴りたくなったり、きつく押さえつけたくなったり‥という母親ならだはの気持ちのイライラを嗅ぎ取った。
 社会や世間一般が一方的に求める「慈愛」や「やさしさ」だけが母親像ではない。現実の子どもとの葛藤にまで踏み込んで描いていることに私はとても惹かれている。



 「母の愛撫」(1896頃)という作品もある。この母親、子どもを愛撫などしていない。逆に子どもの左手が母親の頬を撫でるようにしているが、その子どもの手を強くにぎっている。ひょっとしたら子どもの手を払いのけようとしているようにも見える。あるいは反対に強引に子どもの手を母親の頬に持っていたのかもしれない。
 もうひとつ気になったのは、母親の視線と子どもの視線は交わっていない。下を向いて何となく眠そうである。この視線の解釈が正しいとすると、子どもは母親を起こそうとして手を頬に当てており、母親はそれを払い除けようとしている可能性がある。決して慈愛に満ちた一瞬ではないと思われる。
 図録の解説では「母子が見つめ合うひととき」「移ろいやすい一瞬の光景ではなく、普遍性や永遠性を湛えた世界」と抱えているが、私は母子の視線は交わっていないと思う。
 育児や家事などでの疲れからまどろんでしまう母親に甘える子ども、そんな母親の厳しい現実を見つめているカサットがいる、と私は感じた。



 「家族」(1893)ではキリストの受難を象徴する赤いカーネーションから「ひとときの幸福とともに子どもの将来を案じる母親の憂いが暗示」と書かれている。私はカーネーションの寓意は多分そのとおりだと思うが、聖母子像の19世紀末的な変容の内実は別の点にあるように思えた。
 ひょっとしたら主題はカーネーションをもつ少女なのではないだろうか。大人へと近づく少女の、社会一般の母親像への不安や違和など、カサット自身の思いが詰まった少女像のように思える。
 ここでは実に穏やかな表情と視線の母親であるが、ひょっとしたら男である赤子の表情と視線はきつい。いづれ家族から自立する赤子と、世間的な家族・母親像に縛り付けられる少女の不安と疑問がどこかに横たわっていると思えた。



「母親とふたりの子ども」(1905頃)。
 構図的には母親の下半身を蓋う服の占める割合が大きすぎると思ったが、丸い画面がそれを強いているのかと思った。
 カサットはこの作品を気に入っていたようで「自分の最高の作品のひとつ」といっているという。母親と赤子の表情は後ろ向きのために隠されたままである。作品の中心はこちら向けの少女の寂しげな表情と視線である。
 「家族」に描かれた少女よりは幼い子どもなので、多分自分の将来に対する思い、というのではなさそうである。すると母親の愛情が注がれる下の子に対する嫉妬の表情なのだろうか。母親の左手は力が入っておらず優しげではある。だからといって3人の温かな交感を描いたとも思えない。
 この作品について「州議会議事堂の女性用待合室壁面装飾として委嘱された。しかし州政府との軋轢から作品の受渡しを取り下げ」と解説にある。どのような軋轢があったかわからない。また「議会の女性用待合室」というのが現代の私たちには馴染めないが、この絵の鑑賞には女性参政権運動の中でのさまざまな動きも考慮する必要があるのかもしれない。

 メアリー・カサットの作品は配色に工夫が感じられる。背景の色と服装の色、肌の色合い等々計算されつくしているように思う。人物の形態と視線にさまざまな仕掛けや思いがこもっているように感じられる。私なりに勝手にいろいろ想像してみたが、果たして的を得ているか、心もとない。
 もうひとつ。マリアの夫、ヨゼフが新約聖書では影が薄いように、カサットの作品には、男が登場する割合が極めて低い。カサットは姉、母親、兄夫婦とその子ども達を丹念に描き、その家族を大事にしたと聞いている。男の肖像画としては、展示されているのは兄の肖像画と美術評論家・小説家のジョージ・ムーアのみである。父親も展示されていない。カサットにとっての「家族」の像とはどのようなものだったのであろうか。