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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

あまりに蒸し暑い‥

2016年08月23日 23時19分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜に引き続き今の時間の虫の声は微かである。押しつけがましくもなく、かといって消え入りそうなか細い声でもない。このような静かな声が本日の私にはとても好ましい。
 本日は横浜でも大雨警報が発令されていたが、私の住んでいるところと横浜駅周辺はまったく降らなかった。雲がわたしの頭の上から覆いかぶさるように厚く垂れこめていたが、降ることはなかった。しかし異常ともいえるくらいに蒸し暑かった。
 夜になっても蒸し暑さは変わらない。部屋の中も外も。時々クーラーをつけて湿度を下げている。しかし暫くすると寒くなる。つけたり消したり、忙しい。
 1万6千歩ほどを歩いたが、時速4.7キロ、1時間あたり7400歩ほど。汗をかなり書いたが、それでも運動した、という感じに離れなかった。明日できればもう少し運動したいものである。

★虫鳴けりそこらの畳なほあつき   加藤楸邨


迷走台風10号

2016年08月23日 20時38分42秒 | 天気と自然災害
 台風11号と9号が去ったばかりではあるが、四国の南海上には台風10号が居座って迷走している。NHKでは以下のように解説を流している。今後さらに発達する可能性に言及し、進路は沖縄方面に向かうというところで終わっている。
 【http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160823/k10010651141000.html



 一方でこの後、北上に進路を変えるのではないかという予報もあるらしい。
 【http://matome.naver.jp/odai/2141476502525003401

 どういう進路かという「正しい予測」は私などにはわからないが、北ないし北東に進路を変えで引き返してくるというのは偏西風や高気圧の気圧配置からは説得力のありそうな気もする。
 海水温の高い海域で停滞しているということは、大型の台風に発達する可能性は高いので、今後の進路に要注意だと思う。


漂泊と蝉の声・虫の声

2016年08月23日 10時21分49秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨晩の虫の声とは反対に、朝から賑やかな蝉の声がしている。共に子孫を残すための懸命の努力に思える。蝉と秋の虫、体の大きさも声の大きさもちがう。それは分っているのだがどうしてこうも情感が違ってしまうのだろうか。
 同じように生を使い果たすように発している音であるし、当の蝉も秋の虫もそんなことは考えずにいるとは思う。だが聞いている人間はまったく別の情感を聞きとり、自分の情感に合わせて聞き取ったものを感じ取る。
 多くの人はそれを文化の歴史と捉え、その情感の表出を時代ごとの変容としても感じ取る。人間とは同時代の広がりだけでなく、過去という時間の広がりもまた獲得したといえる。多くの人は「DNA」の変容に結びつけるが、これは間違っているだろう。単なる習俗・習慣に連続と変化である。DNAの変化と結びつけられるとすれば時間尺度は多分1万年単位にしなければいけないかもしれない。
 さて、蝉の声が寂しさや静寂さの象徴と成り得る場合はどんな場合なのか。客観的な状況としては自然の中で聞いた場合であろう。また主観的な場面でいえば、人間との関係の破たんや社会との緊張に絶えられなくなった時の、自己防衛がはたらく場面ではなかろうか。

★閑さや岩にしみ入る蝉の声   芭蕉
 「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」と記した奥の細道の世界は、果たしてこの漂泊の思いだけなのか、漂泊の思いの根拠は何なのか、いつまでも私の頭にとどまっている疑問である。人間は常に漂泊の思いが自然に湧いているのであろうか。私にも「漂泊の思い」というのはある。この思いが湧いてくる時はいつも、人間社会との関係に疲労感や徒労感を感じた時である。どうにも自分の気持ちを表に出せなくなった時、人間関係の継続に断念が生じた時、そしてこれまでの関係からの飛躍を準備している時、等々である。
 この芭蕉の句が蝉の声の静寂さの典型としてあるのは、多分芭蕉がこれまでの俳諧世界からの断絶と飛躍を求めて奥の細道紀行に出立した時の根拠ではないか。社会的な関係から退行している時、人間に訪れる自然との親和性に「閑さや」と発見させた根拠があるように思える。
単なるアイロニーとしての「閑さや」であれば残念ながらこんなには人口に膾炙することはなかっと思っている。
 そして自然との親和性を感じる時というのは、ある意味で生への意欲の回復期の特徴かもしれない。漂泊の思いというのは、生の再生の根源的な欲求に近いものがあると最近は思っている。人間にとって生きることへの意欲を回復するということは、それなしでは生きていけない人間社会への再参入ということである。これまでの社会関係や、これまで付き合ってきた社会関係が醸し出す情感や、その集団が醸し出す言葉の意味を再構築したいという欲求に突き動かされるようになったということではないか。多くの人にとって新たな関係を構築するということはないかもしれないが、これまでの人間関係の再認識・意味の再確認ということも当然含まれよう。
 疑問は何時まで経っても氷解しないし、解決にはならないが、途中まで考える縁にはなる。