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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

8月15日の句

2016年08月15日 22時02分32秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 朝に引き続いてフォーレのレクイエムを聴いている。しかし何という美しい曲なのだろう。モーツアルトのレクイエムもいいし、好きである。だが、このフォーレのレクイエムの美しさは違う。長い人生の経験を積んで身につけることのできる抑制された感情というものが、匂ってくるような世界である。モーツアルトの音楽が持つ華やかな印象は見当たらない。だが、フォーレ自身が「死への子守唄」と表現したという。

 8月15日の終戦の日、敗戦日の句を探してみた。終戦日が圧倒的に多いのかとおもっていたら敗戦日の句の方が多い位である。私の感覚では最近は無意識に「終戦」という言葉が当たり前のように使われていまいか。戦争体験者にとっては「敗戦」の意識の方が継用と思うがどうだろうか。
 また「終戦忌」「敗戦忌」という使い方も多い。亡くなった方を思う意味合いが強くなる。亡くなった日すらわからない方が圧倒的に多い中、あるいは出征地から戻らなかった方々の享年をこの8月15日としたという話も昔はたくさん聞いたことがある。

★敗戦日少年に川いまも流れ        矢島渚男
★割箸の割れのささくれ敗戦忌       辻田克巳
★敗戦日空が容れざるものあらず      石田波郷
★武運長久といふ幻や敗戦日        田中聖夫
★喉もとの小骨のとれず敗戦忌       近藤酔舟
★シーサーのじつとみつめる終戦日     宮崎幸子
★海中(わたなか)の貝のつぶやき敗戦忌  諸岡孝子
★敗戦忌別れを重ね生きのびて       北さとり
★大いなる夕日脳裏に終戦忌        板垣峰水


伊藤若冲「箒に狗子図」と「仔犬に箒図」

2016年08月15日 19時41分40秒 | 読書
   

 緑の箒の図が「箒に狗子図」、水墨画の方が「仔犬に箒図」。ともに作品の描かれた年の特定は出来ていないようである。
 「若冲と蕪村展」(2015年、サントリー美術館)の図録より。

 まず私は水墨画の方を見て、不思議な作品だと思った。ケチをつけるつもりはないが、立体感がおかしい。仔犬の後ろ脚とお尻に注目してほしい。お尻を持ち上げている。そして頭は箒の上に載せている。載せているからには頭は箒の棕梠の先を地面に敷く感じでなければならない。しかし棕梠が折り曲げられて地面に敷かれているようには見えない。箒の棕梠が向かって左だけ異様に長い。
 それは彩色画の方の狗子の方の作品についても云える。水墨画よりは姿勢はおかしくないし、立体感も下に敷いている棕梠の部分を除けばそれほど違和感はない。それでも箒の左だけが異様に長い。
 若冲の作品にしてはそのような立体感の違和が強すぎると思って、敬遠してきた。今も思いは変わらない。

 解説によると、彩色画の棕梠箒と仔犬の取り合わせは、箒=帚(ははき)から「はは=母」に掛けて、母に寄り添う仔犬の安心しきった様をあらわしているとのことである。賛はそれに基づいて「そへさする はゝきなるかや おそはれす いぬの子いぬの子 よくねいりたり」という狂歌であるとのこと。
 一方水墨画の方の箒は、同じ棕梠箒であるが、古来の伝統により寒山を連想させるものとして使われ、狗子は「狗子無仏性説」に基づく題材として解説されている。その当否は分らないが、賛はそれに基づくものであるらしい。「狗子無仏性説」はネットでいろいろ調べたが、私の頭では理解できない議論であるし、作品との関連もよく理解できない。

 しかしそのようなこととは別に現代の私たちはこの作品からどのような感銘を受けるのだろうか。「可愛い」というだけのものであればそのようなものはいくらでもある。しかも「可愛い」という価値は私にとっては理解できない範疇にある。仔犬の表情は彩色画の方は後ろ向きであり、水墨画の方は現実の犬からは程遠い。ふっくらとした体形は現実感がない。
 気にはなるが、それが何に由来するものなのか、このような絵画の感銘の根拠は何なのか、いつもわからないまま、頭から離れない作品であることだけは確かである。このような作品は他の画家にもいくつもあるが、若冲だからこそ、この種の作品を描いたことが気にかかる。
 私の感銘や感覚の在り方が多くの方と交わらないところが多々あることに、いつも私は引け目を感じて生きてきた。そのことがいつも私の頭の片隅に消えることなく居座っている。

71年目の8月15日

2016年08月15日 11時19分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 本日は1931年9月18日の柳条湖事件に始まる足掛け15年に及ぶ戦争状態が、天皇による日本の無条件降伏受入れ表明に至った1945年8月15日から71年目である。もっとも戦争状態は日清戦争以来絶えることが無かった他国への軍事的支配の野望から50年戦争という呼び方もあるという。
 私は日と米豪英の戦争だけを前提とした太平洋戦争ということばや、無条件降伏・敗戦ということを前提としない「終戦」ということばは使いたくない。もっとも日中戦争に端を発した東アジア・南アジア・北アジア・太平洋各地域・各国を戦場とした戦争という長い名前しか思い浮かばない。
 戦争は国家という機構が国民を動員して仕掛けるものである。国家には勝敗はあるかもしれないが、戦わされた国民にとっては勝者も敗者もない。あるのは破壊と無惨な死と、癒しきれない無念と怨念であると思う。犠牲になった人命をどう追悼するか、戦争後の国家の在り様が鋭く問われている。そして戦争をさまざまなに体験した政治家が小泉政権を支えたチルドレンたちによって放逐されて以降、戦争に対する箍が政治から、国会から外れてしまったと思う。

 さて本日71年目の8月15日、フォーレのレクイエムを聴きながら次の詩を読んだ。

  戦 争
          中桐雅夫

砂にまみれた人間の眼、
無限に伸びる赤い糸、
熔けてゆく金属、うすく開いた眼、
半裸の女、
世界の端で、
それらを僕は見たやうに思つた。

ゴムの葉が裂けとび、
僕らは夢中で走つた、
僕らは狂つた、
右手の人差指が僕の意志にはんしてぴくつと曲がり、
君の姿は消えてしまつた、
僕は君を殺したのだ。

僕の指と君の心臓とをつないだちひさな鉛の塊り、
ちひさな歯、ちひさな足、すべてのちひさなもの、
世界の端で、
それらを僕は見たやうに思つた。
だか、ピイタア!
なぜ君は、君を殺した僕に微笑みかけるのか。

とほいところから、
飴のやうに流れてくる、
ためらいながら近寄つてくる友よ、
君の名がヘンリイだつたか、
あるひはまた、ロバアツだつたか、僕は知らない、
だが、友を殺した僕を、君はどうして咎めないのか。

かつては美しいと思つてゐた国に、
僕らはやつと帰つてきた。
僕の軍靴はやはり泥にまみれて、
いま、東京の穴だらけの舗道を踏んでゐるが、
君はどこで咳いてゐるのが、
どこで血のチィズをなめてゐるのか。

だが、君には見えるだらう、
友を殺したあはれな男が、
世界の端で、土竜のやうに匍ひまはつてゐるのが。
そして君はわかつてくれるだらう、
生き残つて、行きつづけるといふことが、
死よりももつと苦しいことを。


 この詩は「荒地詩集1951」におさめられている「戦争」という12編の詩(「弔詞(シドニイ・キイズに)」「戦争」「終末」「過去」「白日」「幹の姿勢」「一九四五年秋Ⅰ」「一九四五年秋Ⅱ」「禿山の一夜」「鉛の腕」「合唱」「新年前夜のための詩」)をまとめたもの連作のふたつ目にある。「一九四五年秋Ⅱ」は以前に取り上げた。
 最後の詩で戦争が終わって4か月後の大晦日に詩人は

死骸が墓のなかに落ちこんでゆくやうに
わたしはわたし自身のなかに落ちてゆく
わたしの細く深い海峡のなかに
わたしの暗いあすのなかに


とこの一連の詩を結んでいる。中桐雅夫の戦後は戦争体験の対象化との格闘の開始である。何事もここが出発点である。このことは私もいつも忘れたことはない。

 この「荒地詩集1951」の巻頭言は鮎川信夫の「Xへの献辞」である。そこには「親愛なるX‥‥」ではじまる現代における詩の役割について読者に呼びかけるように書かれている。
 これについてはいつか触れることもしたい。戦後の現代詩の出発点というよりも戦後精神の出発点として魅力ある文章である。