Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「7つの幻想曲 作品116」

2016年08月10日 20時43分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 県内の雨の区域は、まだまだ県央部で強い雨を降らしてはいるが、北から南の海上に抜けつつあるようだ。私の住んでいる横浜の中心街はほんの少しお湿り程度に降って終わったと思われる。
 我が家の団地から見える空には雲の切れ間から星が見え始めた。雷ももうなっていない。しかし大雨・洪水・雷注意報は継続している。
 【追記:22時直前に大雨・洪水注意報は解除となった】



 先ほどからブラームスのピアノの「7つの幻想小曲集」(作品116、1892)を聴いている。ブラームス59歳の作品。私はこの7つの曲が気に入っている。12年ぶりのピアノ曲集であり、続く作品117、118、119と続けて書かれた。
 よくもこれだけ性格の違う曲を丁寧に並べたのかと思う。激しい曲、静かな曲、情動的な曲、沈潜的な曲、この変化の妙に感心してしまう。決して聴きあきることの7つの小品だと思う。



またしても横浜に大雨・洪水・雷注意報

2016年08月10日 18時04分46秒 | 天気と自然災害


 さすがに暑い。一日中家に閉じこもっていようかと思ったが、やはりじっとしているのは性に合わない。一番暑い時間帯ではあったが13時ころに家を出て横浜駅界隈まで歩いた。地下街で有隣堂と家電量販店、文具店、山の用品店などを歩いて30分ほど喫茶店で読書。帰りも歩いて結局11,500歩ほど。歩いたといっても時間当たり6,000歩、時速3.8キロ程度。汗だくになるのは避けた。
 現在横浜市には大雨・洪水・雷注意報が出ている。町田市から八王子市にかけてかなり強い雨の区域がある。少しずつ横浜市の中心部に近づいているようだ。しかし雨の区域の動きは複雑である。 私の住んでいる団地では、17時半位に1回だけ大きな雷鳴がしたが、雨は降ってこない。遠くでの雷鳴が連続して鳴っている。

 本日になって6か所ほどブヨに噛まれた跡がクッキリと赤く目立つようになってきた。噛まれていたいと思ったところ2か所以外に4か所あった。痛いと感じたところは腫れも大きいし、赤い部分も大きく鮮明である。
 シャワー時に石鹸をつけて強くタオルでこすり、あとは以前医師から貰ったステロイド剤を少々。これで痒みは無くなった。後は腫れがひくのを待つだけ。
 そしてすでに鼻の頭の皮膚が剥け始めている。いつも一番先に皮が剥けるところである。

メアリー・カサット展(横浜美術館) その3

2016年08月10日 11時11分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 8月1日にこんなことを書いてみた。

1.子どもの体格が母親に比べて現実の赤子より大きく見える
2.母子とりわけ子どもの眼あるいは視線が他の画家と比べて特徴があるように見える
3.ルネサンス期に代表される聖母子像に比べて、赤子に動きがあるものが多いようだ
4.母親の手、特に手首から先が力がこもっていて逞しい

 そして2~4について述べてみた。1については、いろいろ見ているうちに子どもに焦点が当たっているとき、あるいは表現の主題が子どもの仕草にある時は子どもが大きく、逆に母親や家族に焦点がある時は子どもは現実的な質感におさまるような気がする。
 当然と云えば当然なのかもしれないが、使い分けをしていると感じた。



 掲げた作品は1893年の「果実をもぎ取ろうとする子ども」。子どもが裸というのは、聖母子像をどこかで意識しているように思える。聖母マリアの着物が赤い服と青いマントが、ピンク地の青い模様の服に変じている。だが、ここでは「智慧の実」の象徴とされてきたリンゴの実をイヴのように、しかししっかりと確信をもって子ども・赤子にもぎ取らせようとしている。イヴのように人に勧められ唆されて実を取るのではない。自分の体験を確信をもって子に伝えようとするかのようである。そこらへんに19世紀末の時代を生きた女性の生き様とメッセージがあるやに聞いている。
 最初にこの絵と対した時、母親の片側だけだが眼がとても鋭いことと、子どもを抱く母親の力のこもった左腕に気がついた。同時に左腕の肘から手首までが現実よりも湾曲していて、身体の構造上は少し無理があるように見えた。腕の湾曲は子どもの大腿部まで腕を下げると解消はするはずだが、そうすると子どもの臀部に腕が隠れて力のこもった腕が表現できなくなる。ということはこの腕の力を画家は表現したかったことになる。
 私が気に入ったのは、実を取って与えるのではなく、子どもが自分で取るように仕向けていることである。過剰な母性愛ではなく、子どもの自発を助けるという姿勢がいい。
 飛躍していえば、日本社会の「おもてなし」は誤解の上に成り立っている。現状の「おもてなし」という名の過剰サービスは、人の自主性と個性をないがしろにして、人を自分の思い通りに動かそうという発想である。そしてそれは親が子を過度に支配しようとするところまで落ちている。