Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

贅沢なコーヒータイムを‥

2017年09月25日 23時26分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は大岡信著作集第11巻を読み終えた。11巻所収の「肉眼の思想 -現代芸術の意味-」は中公文庫で持っているので、省略。これは出来るだけ近いうちに再度目をとおしてみたい。「肉眼の思想」には15の文章がおさめられているが、4編を読んだだけである。そしてその4編については記憶に残っていない。たぶん理解できなかった可能性の方が強い。この年になって読み返して理解できるとは限らないが‥。

 著作集第11巻を読み終えたので明日にでも図書館に返却に行くことにした。次の本を借りる予定はない。図書館の帰りにはチェーン店ではないドリップコーヒーを淹れてくれる店で贅沢なコーヒータイムを取るのもいいかもしれない。


「眼・ことば・ヨーロッパ」読了

2017年09月25日 19時58分43秒 | 読書
   

 午後、喫茶店でようやく「眼・ことば・ヨーロッパ -明日の芸術-」(大岡信著作集11巻から)を読み終えた。難解なところもある上に、作品をまったく見たこともない現代作家等との対話の内容や評論なので、解らないことだらけである。どれだけ理解したか、まるで自信はない。しかしその作品にとても惹かれるパウル・クレーについての文章が最後に載っている。「眼・ことば・ヨーロッパ -明日の芸術-」所収の「3芸術と自然」の4番目にある「眼の歩み -クレーの世界-」である。
 いつものように覚書風に、いくつか気になった部分を記しておく。

「クレーの展覧会場は雑踏していてはならなかったし、観客は沈黙していなくてはならなかった。ピカソはわれわれの官能をめざめさせるが、クレーはわれわれの眼を認識の領土へ向かって収斂させる。絵画と認識とのつながる地帯は迷路に満ちていて、ゆきつく涯てには神秘とか直観とか、とりつく島もないようなことばが待ち伏せていることがしばしばだ。クレーの、もはや象徴的でさえない記号的なフォルムの前で、人はひそやかな苦悩に似た感情を覚えないだろうか。「謎」と書かれた門柱がほうぼうに立っているが、その向こうに認識の建築が目もあやにそそり立っているわけでもなく、ただ眼前にね親しげな微笑さえ浮かべながら決して人を踏み込ませはしない、きびしい作品が置かれているのみである。」
「クレーが印象主義の影響から脱する上に大きな転機を作ったのはゴッホの線だった。‥空間の概念のうちに時間を包含させ、芸術的想像を生成の連続としてとらえ、絵画をも運動から発し運動を通じて理解されるものとして考えたクレーの哲学には、その基礎にこうした線の哲学があった‥。」
「クレーは「彼岸へ建設する」ことをめざしたが、彼が此岸へ残したのは、死の謎を、不気味なフォルムと色彩の中に囲いこみ、閉じ込めようとする強靭な意志の結晶としての、晩年の作品群だったのである。」


 あとがきは、次のように締めくくっている。

「危機は、実をいえば、常に存在しているのであって、問題はその危機をむしろ養分に変えつつ、どこまでわれわれが危険機淵に沈んでゆけるかにかかっている。ひとつの文化が、新たな成熟の局面に達するためには、常に大きな爆発的危機の時代を通過せねばならなかったというのは、過去の歴史の示す明らかな事実である。‥ヨーロッパはぼく自身の中にもある、ということを感じながらでなければ、ぼくはヨーロッパとの明らかな疎隔を感じることもなかっただろう‥」

 いづれもなかなか難解であるが、噛み締めてみたい。

 この書を読むきっかけとなった、ミロの「絵画」についての論考はここにはなかった。しかし同じ著作集に納められている中に、「作られなかった私設美術館」という文章があり、そこに言及があった。しかしジョアン・ミロ論ではなく、購入したいきさつのみの記述であった。


爽やか

2017年09月25日 12時09分45秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 朝からさややかな秋晴れ。このような気持ちの良い朝は久しぶりのような気分。風は微かで暖かい。
 午前中は退職者会の業務を30分ばかり。その後は、「怖い絵」(中野京子、角川文庫)に目をとおした。同名の他の2冊「泣く女篇」、「死と乙女篇」も本棚にはある。気分によって手に取るものが違う。爽やかな天気とはそぐわないが、頭にはよく入る。
 午後からは大岡信著作集11巻を読む予定。本日で読み終えたいのだが、果たしてどうだろうか。

 爽やか、は秋の季語である。次の句が歳時記に載っていた。いろいろな場面が想定できる。私は小さい頃の娘を連れて横浜の山下公園を散歩する自分をふと思い浮かべた。
★爽やかや風のことばを波が継ぎ    鷹羽狩行