
11月24日、会期末の直前の夜間に「運慶展」を見てきた。チケット売り場では並んではいなかったものの、会場内はかなり混雑。図録や物品販売コーナーでもごった返していた。しかし普段見ることのできない国宝や重要文化財、寺の秘仏とされている仏像を、しかも背面までも見ることができるのはこのような機会しかない。
特に今回は、父といわれる康慶-運慶-運慶の工房の作品-子の湛慶という流れを追ってみることができた。
展示は、
第1章:運慶を生んだ系譜-康慶から運慶へ
第2章:運慶の彫刻-その独創性
第3章:運慶風の展開-運慶の息子と周辺の仏師
という構成で、国宝と云われる作品が12点、重要文化財指定の作品が24点が並んでいた。
解説の始めに「日本で最も著名な仏師・運慶。卓越した造形力で生きているかのような現実感に富んだ仏像を生み出し、輝かしい彫刻の時代をリードしました。本展は、運慶とゆかりの深い興福寺をはじめ各地から名品を集めて、その生涯の事績を通覧します。さらに運慶の父・康慶、実子・湛慶、康弁ら親子3代の作品を揃え、運慶の作風の樹立から次代の継承までをたどります」と開催趣旨が記されている。
第1章の解説は「運慶の生年は不明ですが、息子・湛慶が承安3年(1173)生まれであること、処女作と見られる円成寺の大日如来坐像を安元元年(1175)に着手していることから、おおよそ1150年頃と考えられます。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像、国宝、天喜元年(1053)の作者である大仏師・定朝から仏師集団は三つの系統に分かれましたが、運慶の父・康慶は興福寺周辺を拠点にした奈良仏師に属していました。院派、円派の保守的な作風に対して、奈良仏師は新たな造形を開発しようとする気概があったようです。ここでは、運慶の父あるいはその師匠の造った像と、若き運慶の作品を展示し、運慶独自の造形がどのように生まれたのか、その源流をご覧いただきます」と記されている。
第2章の解説は「文治2年(1186)に運慶が造った静岡・願成就院の阿弥陀如来坐像、不動明王および二童子立像、毘沙門天立像の5体には全く新しい独自の造形が見られます。建久8年(1197)頃の高野山金剛峯寺の八大童子立像は入念な玉眼の表現、立体的に表した頭髪と墨描した後れ毛などが写実性に富み、感情までも表現されています。晩年の無著菩薩立像・世親菩薩立像は、圧倒的な存在感と精神的な深みが感じられます。鎌倉時代の人々が仏像に求めたのは、仏が本当に存在するという実感を得たい、ということだったでしょう。運慶はその要求を受け止めて、余すところなく応えたのです」である。
また第3章では「運慶には6人の息子がおり、いずれも仏師になっています。そのうち、単独で造った作品が残るのは湛慶・康弁・康勝です。ここでは湛慶と康弁の像を展示します。運慶の後継者として13世紀半ばまで慶派仏師を率いた湛慶は多くの作品を残しました。快慶とともに造像したこともあるためか、運慶の重厚な作風より快慶の洗練に近づいています。しかし、京都・高山寺の牡牝一対の鹿や子犬、高知・雪蹊寺の善膩師童子立像などの写実性と繊細な情感表現は、運慶風を継承したものです。康弁作の龍燈鬼立像は力士のようなモデルの存在を思わせる筋肉の表現において、より直接的に運慶とつながっています。このほか、運慶にきわめて近い作風の像を展示します」となっている。
残念ながらじっくりと鑑賞する、細部まで記憶にとどめるということは混雑の状態や、たった1回だけ入城ではとても困難であった。本当は最低でも3回くらい、しかも人の少ない時にじっくりと時間をかけて見たかったとつくづく思う。
そして図録も凝っているのだが、どちらかというと仏像を客観的に見せるというよりも、写真としての芸術性の高い作品集として、コントラストも強調されているものとなっている。これは写真集としてはいいのだろう。しかし私自身の感想を記載するのに引用するものとして利用したり、あとから記憶をたどるとなるとちょっとそぐわない感じもする。
図録に何を求めるか、で評価もむろん違うので一概には断定できないのだが。特に私のように四天王像の下にいる邪気に注目したり、像の指先などに注目して回った人間には、図録ではその細部まで写されていないものが多く、ちょっと残念な気はした。

