Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は「ゴッホ展」(東京都美術館)

2017年12月28日 22時30分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 妻も大掃除と正月の料理作りにつかれたのであろう。「明日は上野の東京都美術館にでも行きたい」と言い出した。「ゴッホ展-巡りゆく日本の夢」のリクエストである。願ってもないお誘いなので、同行することにした。出かけるのは午後になるであろうが、私も楽しみである。
 妻は国立近代美術館の「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」展も見に行きたいと言っていた。猫の絵を見たいとのこと。こちらは来年の3月までの会期なので後回しである。
 混雑していないことを願うのみ。


古ごよみのシミ

2017年12月28日 21時04分17秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 一応私も年末年始の一環としてさっぱりしようと理髪店に行った。いつもの1000円の理髪店である。本日は木曜日、それも14時過ぎなので普段はそんなに混むことはないのだが、年末ということで、10人ほどが並んでいた。急ぐこともないので待つことにした。待っている間、店のなかに掲げられている日付の数字の大きな暦をそれとなく見ていた。写真もなく、書き込みもない暦であるが、薄黒いシミがあった。そのシミも含めて、暦というのは見ていて飽きないものである。

★古暦過去を捨て去るごとく捨つ    戸田豊
★海に出て暦の果を漂へり       佐々木六戎


 過去を捨てることなど私にはとてもできない。過去を忘れることもできない。過去は捨てたり忘れるのではなく、止揚するのであると教わり、体得し、身につけて来た。第1句のように振る舞えるようになるというときには、それなりの内部のつらい葛藤が横たわっている。人から見れはそれは古着をさっと脱ぎ捨てるように新しい衣をまとって飛び立つように見えて、その実は棄てられない過去をどこまでも引きづっているものである。飛び立つさっそうとした姿ばかりを追いかけていては、人は物事の本日を見ることは出来ない。第2句のようにためらい、逡巡し、漂い、逡巡しながらあらたな暦を獲得できる。ここに着目した第2句に私は句の深みを感じる。
 過去を捨てられなくて七転八倒、もがき続けて人は始めてその生を全うする。

シューマン「クライスレリアーナ」

2017年12月28日 12時02分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日はいわゆる「御用納め」「仕事納め」。最近は勤務時間の流動化で「一斉に」ということが少なくなっているという。「一斉休業」ということばがかすんでしまった。
 私の職場ではそれまでの一週間をかけて原材料の棚卸や在庫確認も済ませ、この日までに忘年会は終わっている。この日は就業時間までに執務室の掃除や片付け、机の周囲の書類の整理などいわゆる大掃除を終了。就業時間とともに軽くビールを飲んで、後片付けを終わると近くの居酒屋に繰り出した。
 ひとりの時間を持つのは29日。しかしその29日も今度は自分の部屋の片づけを妻に厳命されて、あたふたとする。これが毎年の恒例であった。




 この毎年の「繰り返し」を思い出していたら、「繰り返しの妙」ということで、シューマンのクライスレリアーナを思い出した。第2曲が好きである。8音の山なりの音階が繰り返し出てくる。特に発展するわけでもないのだが、飽きることがない。モーツアルト、シューマンという人は実に音階を美しく聴かせる名人だと思う。たぶん誰かの指摘があったと記憶している。
 本日はアルトゥール・ルビンシュタインの演奏でこの曲をかけてみた。