Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

日程の間違いに気がつかず‥

2017年12月21日 23時34分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の夜の予定は明日の勘違いだった。先月の会議の資料が一日まちがっていたようだ。本日朝のうちに気がついて助かった。
 最近は日程の間違い、写し間違いなどを自分がやってしまうことがしばしば起きる。今回は資料の日程をうのみにしてしまったのだが、チラシと資料に記載されている日程の食い違いに早い段階で気がついていなければいけなかった。
 落ち着いて資料に目をとおすようにしなければ‥。

明日から冬至

2017年12月21日 21時30分28秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 明日は二十四節気の「冬至」の始まりの日。終りは1月4日。ネットでブリタニカ国際大百科事典というものに当時の解説が出ていた。
 長いので要約するると、
「太陽の天球上の運行径路である黄道上のもっとも南にある点を冬至点といい、太陽がこの点を通過する時刻が冬至である。日本、中国の暦の二十四節気の一つで(旧暦では)11月中、太陽暦の12月22日頃で冬季の真ん中である。この日の正午における太陽の高度は北半球ではもっとも低く、昼の長さはもっとも短く、夜の長さはもっとも長い。南半球ではこの反対。中国、日本の太陰太陽暦では冬至は暦の計算の起算点として重要。今日の天文暦の推算は春分点が重要な役をもつ。
 暦のうえでは立冬と立春の真ん中にあたるが、実際の寒さはこのころから厳しくなる。冬至からその1週間後くらいまでの間に通過し、本土の太平洋側にも初雪を降らせることもある低気圧を年末低気圧という。この年末低気圧が一つの折れ目になって、本格的な冬に入る年が多い。
 この日は太陽の光が弱まり植物も衰弱して農耕生活に一種の危機が訪れるが、この日からふたたび昼の日照時間が長くなり、新しい太陽が輝き始めるときでもある。したがって、世界の諸民族の間にも、この日を陽気の回復、再生を願う日、また太陽の誕生日とするような観念がうかがえる。中国では天子が冬至の日に天を祭るのを郊天の儀といい重要な儀式である。また西洋のクリスマスも、もとは陽気回復を祝う風習がその背景にあったといわれる。
 世界的にこの日は一陽来復、農耕の再生の力をもたらす神聖な旅人が村にやってくる日と信じられ、日本では弘法大師が村を巡るという伝承が伝わる。小豆粥や団子をつくって供える大師講の行事がこの旧暦11月23日夜から翌日にかけてみられる。また、カボチャを食べたり、コンニャクを食べる風習があり、カボチャを食べると中風にならないなどともいわれている。またこの日は柚湯に入るという風も一般的である。いずれも衰弱からの再生という冬至をめぐる観念に呼応する儀礼」

と、解説されている。

★玲瓏と我が町わたる冬至の日    深見けん二
★柚子風呂に浸す五体の蝶番     川崎展宏


 第1句、玲瓏とは「玉などが透き通るように 美しいさま。また、玉のように輝くさま」をいう。鮮明でくっきりとした太陽ではないというのが、この句の第一印象。玉を透かして見る太陽は、深い色合いを讃え、熱さえも奪われているかのようだ。しかし柔らかみもあり、あまねく人の世を照らす落ち着いた光でもある。そのような冬至の太陽が傾きかけて日没に向かって、寒さを呼び寄せながら下って行く。
 第2句、ここに持ってきた「蝶番」が気に入っている。関節の深いところまで風呂のお湯が浸み込んでいくように体を解放してくれる。骨の継ぎ目である間接や背骨をひとつずつソーっと湯に浸していくときの快感は人には説明しきれるものではない。それをあえて「蝶番」と表現してみたのだろう。冬至の日に入る柚子風呂でなければない感慨である。

冬の三日月

2017年12月21日 19時18分09秒 | 俳句・短歌・詩等関連


 組合の会館からの帰りは歩いてきた。会館のある石川町から自宅まで約1万歩ほど。途中横浜駅の地下街で喫茶店で休憩ならびに書店を覗いた。また明日まで発売の年末ジャンボを発売している宝くじ売り場の傍を通ったが長蛇の列。
 自宅の傍では西の空の見晴らしがよく、三日月(正確には新月から4日目なので夕月と呼ばれる)が美しかった。
 冬の三日月は鋭い刃のように身を刺す。ときには、満月にはないするどさで胸に突き刺さって過去の苦い思い出をよみがえらせることがある。

★人死んで冬三日月の反り加減     松本弘子
★冬三日月高野の杉に見失う      桑島啓司
★隣家解体深々照らす寒の月      森本 満


 団地への坂道を登り終えると、急に視界が開ける。団地の隣りの敷地で新たな建物を建てるらしく、土地を造成している。木々が取り払われた、西側が大きくひらけた。沈む太陽や富士山が良く見えるようになっている。三日月や宵の明星などがとてもよく映える。家がたってしまうとこの景色ももう見えなくなる。今のうちに楽しんでおきたいものである。


「運慶展」 感想3

2017年12月21日 11時35分42秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 運慶展でドキッとした像があった。運慶と子息の湛慶によるといわれる「聖観音菩薩立像」(1201年、瀧山(たきさん)寺)を見たときである。像全体の色彩と、手の造形のあまりの艶めかしさに驚いた。解説によれば彩色は後の時代のものらしいが、おそらくは像が出来た当時もこのように艶めかしい彩色が施されていたと思う。
 図録には正面・左横・背面の全身像、正面と左側面からの顔のアップ、左肩の背面からのアップの六様の写真が掲載されている。しかし手の先をアップした頭は掲載されていない。仏像に艶めかしさを感じる私が不謹慎なのかもしれないが、実際のそう感じた。
 掌の皺一本一本、指先の小さな筋肉の起伏、微かだが血管の青筋も見える。それだけではなく艶めかしさは左背面からの腰の線、そして左腋のふくよかな肉付きからも感じられる。
 首の皺から上の頭部、ならびに足先は観音像・仏像らしい造形だが、肩から足首まではとても人間的な造形に思えた。また衣文それも背面の衣文が艶めかしさを増幅させている。
 由来によれば、頼朝の三回忌に頼朝の等身大のものとして造像されたという。胎内に頼朝の鬢と歯がおさめられたと記されており、実際にエックス線撮影で納入品があることがわかっているとのことである。



 この聖観音像の指の造形に驚いて、次に展示されていた運慶作の無着菩薩立像、世親菩薩立像(1212年頃、興福寺)も指先に注目してみた。
 図の右側が無着菩薩、左側が世親菩薩である。いづれも190センチを超える大きな像である。それために角が取れた柔和そうな顔の造形の割には意志の強そうな面立ちと相まって、見る人に圧し掛かるような威圧感すら感じる。
 こちらの像でも正面・左右の全身像や頭部のアップの図は幾様もあるが、指先に着目した図は残念ながらなかった。無着菩薩の指の方が顕著であるが、手の甲におおきく浮き出た静脈、爪、指先の皺がリアルであり、あまりにも生々しい。来ているものの衣文と袖口の柔らかさを感じる造形にも驚かされた。



 次に取り上げるのが有名な「重源上人座像」(13世紀、東大寺)。東大寺の大仏殿の復興の勧進で有名な重源である。これは「運慶ないし運慶一門の直系筋」作と解説に記されている。
 こちらも指先に注目してみた。背筋が丸くかなり前かがみである。にもかかわらず強い意志と高齢にもかかわらず覇気を感じる像である。歳相当の指先の表現も見事だが、生気溢れる仕草に見える。
 こちらも手の甲の静脈が老人特有に浮き出ていて生々しい。数珠を数えるような左での親指が動きをよく捉えていると感じた。山岳修行にもいそしみ、そして勧進としての旺盛な行動力を支えた強靭な意志を見る者に放っている。対照的な衣文の柔らかさもまた見どころに思えた。