Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

メーデー

2020年05月01日 22時11分47秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 退職者会ニュースの校正刷り、第3校ができあがった。これで印刷をお願いすることになった。ようやく私の編集作業は終了。出来上がりは18日昼前まで。いつものとおり組合の会館に配送をお願いした。
 いつもここまで来ると、肩の荷が降りた実感が湧いてくる。毎年5月号は連休が間に入るので、編集作業は早めに行わなくてはいけないので、あたふたする。特に原稿依頼するときは早めに書いてもらうようしつこいくらいに催促しなくてはいけない。そしてメーデーの記事を掲載するために、ギリギリまで原稿が確定しない。メーデーのスペースを空欄にして編集する。そしてあらかじめ決めた枠の中にメーデーの記事を詰め込む。
 印刷会社の校正刷りをつくってもらう方には毎回頭を下げてお願いするばかり。
 今年は新型コロナ騒動でメーデーが中止になり、助かったものの、こんどは総会まで紙面での対応となったため、議案書を新聞に掲載することになり、やはり慌てた。新聞とはいえ、文字ばかりの4頁仕立て、というのはできれば作りたくない紙面構成である。

 それでも読んでもらえるような構成上の工夫はしたつもりだ。途中で放り投げないで、最後まで読んでもらえるだろうか。だんだんこの不安が増幅してきた。

★ねむき子を負ひメーデーの後尾ゆく   佐藤鬼房
★雪のこるメーデーへ来て加はりぬ    安藤次男

 「24時間働けますか」という馬鹿馬鹿しく、腹立たしいコマーシャルがつい最近まで流れていた。非人間的なコマーシャルを平然と作る会社があり、その会社の労働組合が文句を言わず、それを流すテレビがあり、それを違和感なく見聞きしている国民がいて、弁護士も、労働組合の中央組織も抗議しない。そんな世の中、そんな国に私たちは住んでいる。
 メーデーの「8時間労働」の獲得目標など何ら考慮されない「先進国」日本。メーデーが来るたびに私は気持ちが落ちこむ。
 私が学生の頃、仙台のメーデーを覗いたことがある。お祭りのようなリラックスした雰囲気になじめなかったが、今思うと当時はメーデー参加を理由として仕事や職場を離れることができたのである。
 そしてメーデーの赤いハチマキや腕章をしたまま、デモ解散地点で参加者は居酒屋に流れ込んでいた。労働時間の短縮、メーデーの日は早く帰ることができる、飲み屋に明るい時間帯に行ける、子どもも参加して職場の仲間と交流できる、実に和気あいあいとして楽しいのである。

 職場と地域と家庭が混然となる場面は無くなってしまった。もう一度労働時間の短縮を肝に据えて労働運動が変わっていかなくてはいけないのではないだろうか。それに伴ってこれからメーデーも変わっていかないといけないのだろう。

 


夕刻にまたも買い物依頼

2020年05月01日 20時25分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日はいつものように無くなりかけているアルコール消毒液を求めてドラッグストアに出向いた。調理器具用の消毒薬がたまたま棚に見つけた。残り2つであった。一人一つということで急いで籠に放り込んだ。この製品は、界面活性剤はゼロで洗剤ではない。これとやはりたまたま入荷していた一袋7枚入りの不織布のマスクも購入できた。
 その後、歩いてさらに2千歩ほど先のドラッグストアとは別のドラッグストアをのぞいてみたが、マスクも消毒液も入荷はなかった。

 夕刻になって妻の依頼もあり、20時直前に今度は食材の忘れ物を調達に先ほどのドラッグストアに出向いた。恥ずかしながら本日三度目の顔だし。閉店前で昼間と同じように混んでいた。マスクの棚はもうすでにから。アルコール消毒液もなかった。

 一日中買い物に振り回されてしまった。

 


ブラームスピアノ協奏曲第1番

2020年05月01日 12時32分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 久しぶりにブラームスのピアノ協奏曲第1番。
 ブラームス20代半ばの曲。吉田秀和は以下のようにこの曲を語っている。

「この曲がヨハンネス(ブラームスのこと)へのシューマンの悲劇の反映であるというのが素直に受けとれるのも、どんな人が聴いても、ここに激越な興奮(第1楽章)と、それから、あるものへの畏敬の念に満ちた回顧的なやさしさ(第2楽章)と、そうして最後に舞踏的アクセントを通過しての祝福への意欲とが認められる‥。ブラームスは、「私はこの失敗で反省することによって力を得る」と書いた。これは当時は完全には意識されてなかったかもしれないが、今後の枯れの生き方を根本的を語るモットーとなった‥。ブラームスは、次第に自発的な相違に寄るだけでなく、むしろ反省によって得られた力を絶対に手放すことをしない芸術家になってゆく。」

 CDの解説にあるとおり、初演は不評であった。14年後の1873年、クララ・シューマンの独奏による演奏で評価を得られたとのことである。
 この曲の評価が定まったという1870年代とは美術で言えば、どんな時代だったのだろう。同時代の音楽と美術はなかなかイメージが結びつかない。

      

 ドイツの同時代の画家は私は知らないが、イギリスではホイッスラーがいる。音楽に因んだ題名で私には親近感がある。1875年の「黒と金色のノクターン 落下する花火」を思い浮かべた。そのホイッスラーと対極にいたのがラファエロ前派。1874年ロセッティの「プロセルピナ」(1874)がある。
 フランスでは、印象主義が胎動を始めている。モネの「カササギ」(1869)もこのころ。

 政治的には、1871年ドイツではビスマルクを宰相としてドイツ帝国が成立、同年パリコンミューン、イギリスでは労働組合法が成立。ヨーロッパ全体が激動の時代であった。

 ブラームスには関心はなかったらしいが、漱石がイギリスに留学したのは1900年、ターナーやラファエル前派に関心を寄せていた。