Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「老子」のアジテーション

2023年03月08日 10時39分20秒 | 読書

 ふと「老子」を手に取って、開いてみると第53章が目に入った。

使(も)し我れ介然として知有らば、大道を行きて、唯だ施(し)を是れ畏(おそ)る。大道は甚だ夷(い)なるも、而れども民は径(けい)を好む。朝は甚だ除(よご)れ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚しきにに、文綵(ぶんさぃ)を服し、利剣を帯び、飲食に厭(あ)き、財貨余り有り。是れを盗夸(とうか)と謂う。道に非(あら)ざる哉。

もし、わたしにしっかりした知恵があるならば、大きな道をあるき、わき道に入り込むことだけを怖れる。大きな道は、まことに平坦なのに、人民は近道を行きたがる。朝廷では汚職邪悪がまかり通り、田畑は荒れほうだい、米倉はすっかり空っぽなのに、きらびやかな衣服を身にまとい、立派な剣を腰に差し、飽きるほど飲み食いし、財産はあり余るほど。これを盗人の親玉という。道ではないのだ。」(岩波文庫「老子」、蜂屋邦夫訳)

私に一介の士としての知があるとしたら、大道を行って、ただ曲がった道だけを怖れる。大道はこの上なく平坦なのに、大衆は小道を行きたがる。朝廷は掃除は行き届いているが、田は荒れ放題で、倉庫はまるで空っぽである。それにも拘わらず、文様と彩りのきれいな衣服を着飾って見事な剣を腰に帯びた輩は、飲食に飽き、財貨は有り余っている。こういう奴らを盗人(ぬすっと)の親玉というのだ。非道ひのものだ。」(ちくま新書「老子」、保立道久訳)

 なかなか激烈なアジテーション風の言葉である。保立氏の指摘のように「士太夫」としての「エリート意識と民衆不信」が垣間見えるところは鼻につく。
 しかし今の日本の支配層(世襲の政治家が当たり前の世界と腐敗がはびこる官僚トップ層)を見るに付け、こういう激烈なアジテーションにも気持ちが引き寄せられてしまうことがある。

 社会の分断の深化、二者択一の思考、知恵無きエリート意識のひけらかし・・・こんな状況ばかりの閉塞感の中で、先が見えないまま、私はこの社会とどう切り結ぶか地道に模索し、もがき続けるだけである。



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